2015年9月12日土曜日

ヤーダヴァ族


 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪アズミ族の正体≫ヤーダヴァ族

 超古代にアラビア海から太平洋へ航路を開いた阿曇族
 ―「船」を家とした人々の来歴―

 サンスクリット語にも

 メルッハ Mleecha という用語がある。
 
 その意味は「野蛮人、異民族」である。

 サンスクリット語はインド・ヨーロッパ語族の方言で、

 その支族アーリア人がインドに侵入して定住を始めたのは

 紀元前1500年頃からであり、

 メソポタミアとメルッハとの交易を語る、

 サルゴン王の時代は

 それよりも1000年も遡及する2500年頃である。

 インド亜大陸の中原にアーリア人が次第に進出してきた時に

 すでにメルッハと称される非アーリア人がすべてを含めた

 一般名詞として使うようになったと考えられる。

 先住民とは、

 ドラヴィダ人かあるいはあのバローチ人たちだろうか?

 彼らがバローチスタンに渡来したのは

 紀元前14、13世紀のことであり、彼らは該当しない。

 その先住民はバローチ人が Jatt人 と呼ぶ人々である。

 パキスタンのマクランにジャディ岬があるように彼らは

 マガンにも居住していたのだろう。

 ジャディとはサンスクリット語にいう ヤドゥ Yadu のことであり、

 その民族名をヤーダヴァYadavaという。

 YaduとYadavaは

 Yadasに由来する。

 その意味は「海の怪物」であり、

 メソポタミアのオアネスと関係する。

 オアネスは魚人であるが、

 サンスクリット語の魚は マツヤ Matsyaで、

 この名称は紀元前の16王国のうちマツヤ国の名称でもある。

 ヤムナー川沿いのこの国の南にスーラセーナ国があった。

 マツラ国の首都は マトゥラ Mathuraで、

 九州の佐賀県・長崎県にまたがる

 松浦地方の名称になっている用語と同名である。

 マツヤ国、スーラセーナ国が

 ヤーダヴァ族の国であったことは

 プラーナ聖典で叙事詩で語られている。

 サンスクリット語の avanc は

 「南の、より低き、下方の」を

 意味するが、オアネスの居ただろう

 シュメルのペルシャ湾沿岸地帯を想起させ、

 オアネス Oanes と訓音が近似しているので

 ナルマダ川の北方ウジャインを中心とする

 アヴアンティ Avanti国との関連をうかがわせる。

 アヴアンティ国の祖をハイハヤ王というが、

 同王はヤドゥの系譜に連なる傍系であるという。

 メルッハの比定地とされるマルワとその周辺地域に

 オアネスと係わる用件が数多くある。

 ヤーダヴァ族がインド・ヨーロッパ語族でないことは、

 その族長のクリシュナについて

 諸聖典、叙事詩の語るところである。

 クリシュナは「黒」であることにより

 非アーリア民の代表であることを象徴している。

 そのため出自をドラヴィダの神として皮膚の色を黒く

 描かれることもあるが、ヤーダヴァ族は白色の皮膚をし、

 頭の黒い地中海人種であることは確かである。

 シュメル人は頭の黒い人といわれた。

 ドイツのシュワーヴェンの人々は黒い人々であった。

 彼等はスエヴィ人でスバルを語幹とする民族であると述べたが、

 アーリア人は地中海人種であるヤーダヴァ族を

 「黒」といったのである。

 Yadu について確認しておきたいことは、

 ヤドゥが月種族であることである。

 ヤーダヴァ族は月神崇拝者の集団である。

 ヤドゥがメソポタミアのウルのナンナ(ル)神殿において

 月神崇拝を行なっていたとみられ、

 後にも月(三日月)崇拝を続ける人々ユダヤ人 Judahと

 その呼称が酷似している事実を認めないわけにはいかない。

 アブラムを代表とする月神崇拝の部族がカルディアのウルから

 北シリアのハランに向けて旅に発ったのは紀元前18世紀である。

 一方のヤーダヴァ族は、

 多分ペルシャ湾に船を浮かべて海岸線を

 東西に行き来していたのであろう。

 そのうちメソポタミアからの大量移住が行なわれたと考えられる。

 その時期は南メソポタミアへのセム系アムル人の侵攻が激しくなった。

 シュメル人が消えてしまったとされる

 紀元前2500年頃でないかと推測される。

 サルゴン王の碑文にみられるメルッハとの交易が

 盛んに行なわれた時期である。

 旧約聖書創世記のペレグ伝承による分裂の時である。

 バローチ人は陸路メソポタミアを離れた。

 その結果1000年をかけて現在の地

 バローチスタンに辿り着いたのに対し、

 海上に出たヤーダヴァ族は比較的早くインド亜大陸に着いたのである。

 現在当該国をインド(英語名 India )というが、

 この国名は Sindu がギリシャ語に入り、訛ってできたものである。

 一方サンスクリット語に indu という月を表す用語があり、

 Indu desa はインド(天竺国)を表す。

 現在インドで強力な宗教ヒンズー Hindu 教は、

 このサンスクリット語から派生した Hendu (月)の踏襲であり、

 ヒンズー教徒は月神信徒ともいえる。

 それというのも、もう一つの理由として三日月を象徴とする

 シヴァ神への信仰が篤いからである。

 サンスクリット語には、また月を表す Canda という用語がある。

 この月による Candra がヤーダヴァ族の祖はアトリ仙 Atri といい、

 「リグ・ヴェーダ」で最も多く登場する聖仙である。

 月種族は彼から始まり、彼の子がチャンドラで、

 ヤドゥはその第9代となる。

 チャンドラはインドの神話における月神名でもある。

 また多くの人名に使われている。

 マウリア王朝を開いたチャンドラ・グプタ、

 20世紀の第二次世界大戦中活躍したチャンドラ・ボースは

 親しい名前である。

 月種の祖であるアトリ仙のその名は「満月」を表すと思われる。

 ヤーダヴァ族の祖地とみられるシュメル語に

 月を表す iti がり、

 「肥満した」あるいは「豊かな」の lu が結合した

 iti-lu は「満月」を意味し、

 この用語が祖語になっていると考えられる。

 アトリ仙を登場させたリグ・ヴェーダはアーリア人が

 作りだしたものであるが、次章で説くように、

 かれらもメソポタミアの周辺から、

 その文化の影響をいろいろな形で受けている。

 ヤーダヴァ族は、シュメルにいた、

 オアネスに伝説化された文明の開拓者たちである。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年9月11日金曜日

メルッハ・オフル・メルッハとマルワ 


 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪アズミ族の正体≫メルッハ・オフル・メルッハとマルワ

 超古代にアラビア海から太平洋へ航路を開いた阿曇族
 ―「船」を家とした人々の来歴―
 
 メルッハ Meluhha とは紀元前25世紀のアッカド語に

 初めて現れる地名である。

 アッカドのサルゴン王の時代に

 同王の業績を語る楔形文字の碑文に記されている。
 
  キシュの王シャルキーン。

  彼は34回もの戦闘を勝ち抜き、

  海の果てに至るまでの城壁を打ち壊した。

  メルッハの船、

  マガンの船、

  ティルムンの船を

 アッカドの港に停泊させた。

 シャルル・キンはサルゴン王の正式な王名である。

 ティルムンは現在のバーレン島であることが

 一般的に容認されている。

 しかし、メルッハとマガンの該当地については

 確認されていない。

 アッカドから出土した他の楔形文字の粘土板には

 「海の向こうに行った王や商人」

 「船の沈没・海難」

 などについての記録が記されているが、

 注目されるのは

 「外国の港から輸入された積荷のリスト」であり、

 その中にメルッハから輸入された品目名が

 次のように上げられている。

  黒檀、牛、孔雀、銅、紅玉、

  金、銀、ラビスラズリ、

  錫、象牙、猿、鶏

 また、シュメル語の

 「エンキと世界秩序の確立」と題される

 神話では、メルッハが金と錫によって

 繁栄が約束された土地として語られる。

 この二つの鉱物は

 上記のアッカドの輸入品目にも含まれている。

 紀元前22世紀の

 ラガシュのグデァ王B像(ルーブル博物所蔵)にも

 「その砂金をメルッハ国から出し、

  洪水の神殿のため使った」

 との楔形文字の刻文がある。

 メルッハ国は

  kur me-luh-ha

 (国‐ある‐人々‐魚)と刻字されており、
 
 「魚人のいる国」の意味となる。

 魚人いえばオアンネス伝説が想起される。

 第2章メソポタミアと牡牛のうちの

 「エンキ神とメの職能」において触れた、

 紀元前300年頃

 「バビロニアのべールの神官」をしていた

 ベロッソスがギリシャ語で要説した

 歴史のなかに記されているものであるが、

 ジャン・ボテロの引用を転載する。

  バビロニアにおいては、数多くの人間がよそから

  カルディアの地

  (メソポタミア南部のペルシャ湾に隣接した地域)

  にやって来て住み着いたが、

  彼らは動物と同様の粗野な生活を送っていた。

  最初の年に、

  紅海からやって来たオアネスという名の異様な怪物が、

  岸辺に現れた。

  彼の身体は全体として魚のそれであったが、

  頭の下にもう一つの頭が挟み込まれていて、

  それは人間の頭であった。

  足の陰にも人間の足と同じ足が見えた。

  この姿を人々は記憶にとどめていて、

  今日でもそれを再現した像を作っている。

  この生き物は、

  人間の闇に混じって食物を何も採らずに日々を過ごし、

  人々に文字、

  あらゆる種類の科学と技術、

  町の建設、神殿の建造、

  判例の集成、幾何学を教えた。

  同様に穀物(の栽培)や果物の収穫などについても明かした。

  要するに、彼は人々に文明生活の基本となるすべてを授けたのである。

  それが完璧であったがために、それ以来人々は(この問題に関して)

  これ以上素晴らしいものに遭遇することはなかった。

  日没時には、オアネスという名のこの怪物は、

  夜を過ごすため水の中に身を沈めた。

  彼は水陸両棲生物だったからである。

 ここにいう紅海は、

 現在のアラビア半島とアフリカ大陸に

 挟まれた狭い範囲ではなく、

 ギリシャ語でエリュトゥ海といわれ、

 その当時は現在のアラビア海を、

 広い概念としては

 インド洋全域を指していた。

 魚人とは

 このオアネス Oanes あるいは Oannes のことである。

 水陸両棲生物というと大山椒魚を想起させられる。

 オフル Ophir は、

 旧約聖書列王紀上にソロモン王の交易に関する記述に

 見られる地名である。

  オフルから金(きん)を載せてきたヒラムの船は、

  またオフルから

  たくさんの白檀の木と宝石とを運ん来たので、

  王は白檀の木をもって

  主の宮と王の宮殿のために壁柱を造り、

  また歌う人々のためには琴と立琴と造った。

  これは王が海にタルシシの船隊を所有して、

  ヒラムの船隊と一緒に航海させ、

  タルシシの船隊に3年に一度、

  金、銀、象牙、猿、孔雀を載せてこさせたからである。

 ソロモン王の時代は

 紀元前965年から932年が統治の期間であった。

 エゼキル書第27章はまた次のように述べる。

  デダンの人々はあなたと取引し、

  多くの海沿いの国々は、

  あなたの市場となり、

  象牙と黒檀とを貢ぎとしてあなたに持ってきた。

 このデダンについては、

 日本聖書協会版は西欧の聖書版に

 ローヅ島とあることに従って

 ローヅ島にされているが、

 エーゲ海の島である同島からの貢物が

 象牙や黒檀であるのは妥当性がなく、

 すでに述べていたようにフィリステルの

 アシュドドとするのが相当と考えられる。

 サルゴン王の時代は紀元前25世紀、

 ソロモン王の時代は紀元前10世紀と

 その隔たりは1500年程度あるが、

 前者がメルッハから、

 後者がオフルから輸入した品目のリストを比較すると、

 その内容が極めて類似している。

 メルッハの比定地がインドであるとの見解が一般的である。

 その見解を妥当とするが、

 オフルもまたインドとみる。

 双方の交易品目の大半が

 インドに特有な産物であるからである。

 黒檀はインド南部及びスリランカが原産地である。

 白壇はサンスクリット語でマラヤ Malaya といい、

 インドの南部アラビア海のマラバール海岸にある

 マラヤ山脈の名に依るもので、この地域に産する。

 またその名がマラヤ半島、マレーシア国になっているように

 インドシナからインドネシアまでの

 アジア南部に広く分布しているアジアの特産である。

 孔雀も南アジア特有の鳥類である。

 孔雀には二種あり、

 マクジャクが

 中国南部からインドシナ、マラヤ半島、ジャワ島に棲息し、

 インドクジャクがインド、スリランカに分布している。

 象牙はアジア南部のアジア象のものと考えられる。

 猿はサンスクリット語で markaha というが、

 その呼称はメルッハに類似する。    
 
 貴石類のうちラビスラズリはアフガニスタンの東北部

 バタキスタン地方しか算出しないものである。

 以上のようにその産物の搬出地として

 インド地域の妥当性が高いことが明らかである。

 メルッハの遺称をマルワ Malwa と考える。

 なぜならば、

 「マルワ」Malwaの祖語を

 シュメル語の

  Ma-lu-ha「土地・人・魚」とみるからで、

 これは
 
 メルッハ Kur-me-luh-ha 「国・ある・人々・魚」と

 同義であるからである。

 現在のマルワは

 西部インドのヴィンダヤ山脈の北方に広がる地域で、

 カンベイ湾を通ってアラビア海に抜ける。

 その名称は紀元前4世紀に

 アレキサンダー大王が遠征してきた際、

 勇敢に戦いをいどんだギリシャ語では Malloi族、

 サンスクリット語で Malava族と呼ばれた人々の故郷である。

 その中心的地域は

 紀元前8、7世紀頃16王国といわれた国の一つ

 アヴァンティ Avanti であった。

 ウジャインがその首都名である。

 サルゴン王碑文にメルッハと併記されているマガンは

 紀元前500年頃 マカ Maca と称されたとみられる

 現在のイランとアフガニスタンの国境にまたがる

 アラビア海岸のマクラン地方に比定される。

 オフル名は、

 マルワの西北に現在ウダイプール市があるが、

 その東方わずか3㎞のところに

 紀元前2000年から1400年にわたる

 金石併用文化のアーハール Ochare 遺跡があるように、

 インド」のしかもマルワ地方に該当されるものと考える。

 その原義はサンスクリット語の

  ahare (日、昼)とみられる。

 オフルを西欧の専門研究者は

 アフリカ(ソマリア)に比定しているが、

 アフリカ名はローマ時代にローマ人がカルタゴを

 征服した(紀元前146年)後、

 領土名に使い始めたもので、

 ヘロトドスの『歴史』などにはリビアとしており、

 アフリカの呼称はない。

 紀元後140年頃作成されたらしい

 プトレマイオスの世界地図においてさえ、

 同大陸の北部の広範囲をリビアとし、

 カルタゴの狭い地域をアフリカとしているに過ぎない。

 オフルは既述の産物を輸出できる地域でなければならない。

 ソマリアが紅海の入口にあって貿易の中継地であったにしても、

 インドとする方が妥当であろう。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年9月10日木曜日

インド神話伝説


 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪アズミ族の正体≫インド神話伝説

 超古代にアラビア海から太平洋へ航路を開いた阿曇族
 ―「船」を家とした人々の来歴―

 出典:「インド神話伝説事典」:菅沼 晃
   :東京堂出版

 「ヤージャ=Yaja」

 高潔さで知られるバラモン。

 パンチャーラのドルパダ王の懇願によって、

 雌牛一○○○万頭を供え、祭祀を行なった結果、

 その祭火の中から

 ドリシュタディユムナとドラウパディーが生れ出たといわれる。

 「ヤジュニャ=Yajina」

 「犠牡」「祭祀」の意で、プラーナでは人格化されてルチの子、

 ダクシナー(「供物」の意)の夫とされる。

 彼は鹿の頭をもっていて、

 ダクシャの祭祀のときに

 ヴィーラバドラによって殺された。

 『ハリ・ヴァンンャ』によれば、

 彼はブラフマー神によって天空に昇り、

 ムリガシラス(鹿の頭)と呼ばれる星座となったという。

 「ヤージュニャヴァルキヤ=Yajnvalkya」

 ウパニンャッドの哲学者として知られる聖仙で、

 『白ヤジュルヴェーダ』、

 『シャ夕パタ・ブラーフマナ』 、

 『ブリハドアーラニヤカ』 、

 『ヤージュニャヴァルキヤ法典』の伝説上の著者。

 『シャタパタ・ブラーフマナ』によれば、

 彼はヴィデーハ王ジャナカの宮廷でしばしば催された

 哲学上の討論会で多くの論敵を破った。

 ヴィダグダ・シャーカリヤという名のバラモンが

 とくに彼の論敵として有力であったが、

 ヤージュニャヴァルキヤはついに彼を論破して呪いをかけ、

 その結果、ヴィダグダ・シャー力リヤの首は落とされ、

 その骨は盗人に持ち去られたという。

 彼にはマイトレーイーとカーティヤーヤニーという二人の妻があり、

 ブラフマ・ヴァーディニー(哲学を論ずる女性)といわれる

 マイトレーイーにアートマンの教えを説いた話が知られている

 (『 ブリハドアーラ二ヤカ・ウパニシャッド』

 「ヤジュニャセーナ=Yajnasena」

 パンチャーラの王ドルパダの別名。

 「ヤショーダー=Yasoda」

 牧人ナンダの妻で、クリシュナの養い親。→クリシュナ

 「ヤースカ=Yaska」

 ヴェーダの難解な言葉についての註釈書『ニルクタ』の著者。

 「ヤーダヴァ=Yadava」

 「ヤドゥの子孫」の意で、ヤドゥを祖とする部族名、その王朝、王国名。

 クリシュナはこの部族の出身である。

 ヤドゥの系譜はアトリから始まり、

 チャンドラ、ブダ、プルーラヴァス、アーユス、ナフシャと続き、

 ナフシャにはアーヤティとヤヤーティという二人の息子があった。

 ヤヤーティには二人の妻サルミシュターとデーヴァヤーニーがあり、

 シャルミンュターとのあいだに

 ドルヒユ、アヌドルヒユ、プールという三人の男子をもうけた。

 このうち、プールからプール・ヴァンシャ(プールの系統)が始まる。

 ヤヤーティはデーヴァヤー二ーとのあいだにも

 二人の息子ヤドゥとトゥルヴァシュをもうけ、

 このうちのヤドゥからヤドゥ・ヴァンシャ(ヤドゥの系統)

 すなわち、ヤーダヴァ(ヤドゥの子孫)が始まる。

 ヤドゥには四人の息子

 サハスラジット、クローシュトリ、ナラ、リプがあり、

 サハスラジットの子シャタジットには三人の子

 マハーバヤ、ヴェーヌハヤ、へーハヤがあり、

 このうちへーハヤはへーハヤ・ヴァンシヤ(へーハヤの系統)となる。

 彼の子ダルマにはクンティ(あるいはクニ)という息子があり、

 クンティはサダージット、マーヒシュマツト、

 バドラセーナ、ドゥルダマという

 四人の子を持った。

 このうち、ハドラセーナにダナカが生れ、

 ダナカには

 クリタヴィーリヤ、クリターグニ、

 クリタヴァルマン、クリタウジャスがあり、

 このうち長子のクリタヴィーリヤから

 カールタヴィーリヤールジュナが生れた。

 彼には五人の息子、

 ジャヤドヴァジャ、シューラセーナ、ヴリシャバ、

 マドゥ、ウールッジタがあり、

 このうちのマドゥの子としてヴリシュニが生れ、

 ここよりヤドゥの系統は

 ヴリシュニ・ヴァンンヤ(ヴリシュニの系統)となる。

 ヴリシュニには四人の子があったが、

 ヤドゥの系統はそのうちのユダージットへと続き、

 そのシニからサティヤカが生れ、

 サティヤカからサティヤキが、

 サティヤキからサーティヤキが生れ、

 さらにジャヤ、クニ、アナミトラ、プリシュニ、

 チトララタ、ヴィドゥーラタ、

 シューラ、シニ、ボージャ、フリディー力、シューラと続き、

 このシューラとその妻マーリーシャーとのあいだに

 ヴァス、デーヴァバーガ、デーヴァシュラヴァス、

 アーナカ、スリンジャヤ、

 カーカーニーカ、シュヤーマカ、ウァツア、

 カヴーカ、ヴァスデーヴァが生れた。

 このヴァスデーヴァとカンサの妹である

 その妻デーヴァキーとのあいだに生れたのがクリシュナである。

 クリシュナよりプラディユムナ、アニルッダ、ヴァジュラと続いて

 ヤーダヴァの系譜は終わる。

 バラタ族の戦争ののち、三六年目にヤーダヴァ族は減亡した。

 「ヤートゥ=Yatu」

 あるいはヤートゥダーナ。

 悪魔、あるいは邪悪な精霊で、

 犬やハゲ鷹などの姿をとって人間に害を与えるといわれる。

 ヤートゥはラークシャサ(羅刹)と別のものであったが、

 叙事詩やプラーナては両者は同一のものとして扱われている。

 『ヴァーユ=プラーナ』 では一二のヤートゥダーナの名をあげ、

 カシュヤパ仙とスラサーから生れたとされる。

 「ヤドゥ=yadu 」

 月種族(チャンドラヴァンシャ)の王

 ヤヤティの子でヤーダヴァ王朝の創始者。

 「デーヌカ=Dhenuka」

 ロバの姿をした巨人のラークシャサの名。

 彼はカーリー(あるいはターラー)の森に住んでいて、

 人々はこの巨人の噂を聞いてこの森を通ろうとはしなかった。

 そこで、クリシュナは兄のバララーマとともにその森に行き、

 激しく戦った末にうち倒した。

 また、

 他の物語ではバララーマとクリシュナが牧童たちと牛を見守っている時、

 一人のアスラが雌牛の姿をして群の中に入って来た。

 バララーマとクリシュナは直ちにそれがデーヌカであると見抜き、

 打ち殺したという(『バーガヴァタ=プラーナ』 )。

 「トヴアシュトリ=Tvastr」

 『リグ・ヴェーダ』の工巧神、技術・技工の神。

 この神名は「働く、作る、発明する」という意味をもつ動詞

 トヴアクシュに由来すると推定され、

 ギリシャ神話の鍛治の神へーパイストス、

 エジプト神話のプター、

 バビロニア神話のムンムなどに相当する神格である。

 トヴアシュトリの名は、『リグ・ヴェーダ』の中で六五回現われ、

 独立の讃歌こそないが、

 さまざまなものを作り出す神格として重要な働きをもっている。

 彼は美しくしなやかな腕と手を持ち、

 種々なものを精巧に作りあげる工人・技能者であり、

 インドラの武器ヴァジュラ(雷電)をつくり、神々の盃を作り、

 ブラフマナスパティの鉄の斧をとがらせた。

 トヴァシュトリはまた、天地あらゆるものを飾りつけ、

 胎内の子供を発育させ、人間や動物の形を作り出した。

 このことから、彼はガルバパティ(胎の主)とも呼ばれる。

 また、彼の娘サラニユーが太陽神ヴィヴァスヴァットの妻となり

 最初の人間ヤマとヤミーを産んだことによって、

 トヴァシュトリは人類の祖ともいわれる。

 彼の息子は三つの頭を持ったトリシラス

 (またの名をヴィシュヴァルーパ)である。

 プラーナ文献では、

 トヴァシュトリの出生についていくつかの説があげられている。

 すなわち、ヴィシュヴァカルマン(一切を作ったもの)の

 五人の子供

 アヒルブドニヤ、トヴァシュトリ、アジャイカパート、ルドラとして

 記され(『ヴィシュヌ・プラーナ』)、

 カシュヤパの妻スラビがマハーデーヴァの恩恵によって得た

 五人の子供

 アジャ、エーカパート、アヒルブッドニヤ、

 トヴァシュトリ、ルドラの一人とされ

 (『アグニ・プラーナ』)、

 また仙力シュヤパとアディティとのあいだに

 生れた子供とされることもある(『マハーバーラタ』初編)。

 カーンダヴァの森が焼かれた時、

 彼はインドラの側に立ち、

 巨大な山の塊を投げつけて

 アルジュナとクリシユナを苦しめたといわれる(同、初編)。

 一般にプラーナ文献では、

 トヴァシュトリは工匠ヴィシュヴァカルマンと同一視され、

 時にはプラジャーパティとも同一視されている。

 「ドヴアーラカー=Dvaraka」

 あるいはドヴァーラヴアテイー。

 「多くの門を持つ町」の意で、

 ヤーダヴァ族のクリシュナの王国の首都。

 ヤーダヴァ族はジャラーサンダ王と敵対していたので、

 その攻撃からヤーダヴァ族を守るためにクリシュナのもとに結束し、

 ドヴァーラカーと呼ばれる堅固な都市を築いた。

 この都は別名をクシャスタリーといい、

 ライヴァタカなどの美しい山々が要塞のようにその周りに立ち並び、

 神々さえもこの都には容易に入ることはできなかったという

 (『 マハーバーラタ』集会編)。

 ドヴァーラカーにはクリシュナ、バララーマなどの

 ヤーダヴァ族の指導者の集まる議会があり、

 宮殿は太陽と月のように輝いていた。

 ナンダナ、ミシュラカ、チャイトララタ、ヴァイブラージャという

 四つの美しい公園があった。

 ライヴァタ山は都の東の塁壁となり、

 ヴェーヌマンダ山が北の、

 スカクシャ山が西の、

 ラターヴェーシュタ山が

 南の自然の要塞となっていた。

 都の東には美しい湖があった。

 さらに、都には四つの門があり、

 鉄の輪などが防禦のためにつけられていた。

 しかし、クリシュナの死後、

 ドヴァーラカーの都は海に沈んでしまったという

 (『 マハーバーラタ』)。

 現在この都市は

 グジャラートの西の海に沈んでいると推定されている。

 その付近の人々は、

 現在でもクリシュナの子孫であると称しているという。

 「ドヴィヴィダ=Dvivida」

 (1) 巨大な猿の姿をしたアスラ。

  友人のアスラであるナラカが殺されたのを根にもって

  神々を憎み、聖仙の修行を邪魔し、

  さまざまな姿をして田畑をふみにじり人々を困らせた。

  しかし、バラデーヴァの鋤の刃を盗み、

  あざ笑ったのでバラーデーヴァは

  ついに棍棒を取ってこのアスラを打ち殺した

  (『 ヴァーユ・プラーナ』)。

 (2)ラーマと同盟してラーヴァナと戦った猿の名。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年9月9日水曜日

インド・十六大国


 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪アズミ族の正体≫インド・十六大国

 超古代にアラビア海から太平洋へ航路を開いた阿曇族
 ―「船」を家とした人々の来歴―

 出典:「インド古代史」:中村元
   :春秋社
   :第三節十六大国
   :243~259頁
 
 十六大国の観念仏典およびジャイナ教聖典によると、

 当時十六の大国が存在していたという。

 しかし「十六の大国」としてまとめることは、

 やや後代になって定型化したものであるらしい。

 原始仏教聖典の詩句のうちには

 十六大国ということは出てこない。

 『ジャータカ』の詩句のうちには次の諸国が言及されている。

 Gandhara、Pancala、Surasena、Maccha、Madda、Kekaka、

 Saketa、Kosambi、Kuru、Kasi、Vajji、Kusavati、

 Magadha、Anga、Videha、Dasannaka、Goyaniya、

 Assaka、Vamsa、Avanti、Kalinga

 十六の大国(Solasa Mahajanapada)として、

 『アングッタラ・ニカーヤ』には、次の16を挙げている。

 1 Anga

 2 Magadha

 3 Kasi

 4 Kosala

 5 Vajji

 6 Malla

 7 Ceti(cedi)

 8 Vamsa(Vatsa)

 9 Kuru

 10 Pancala

 11 Maccha(Natsya)

 12 Surasena

 13 Assaka

 14 Avanti 

 15 Gandhara
 
 16 Kamboja

 「パンチャーラ国」

 パンチャーラ(Pancala)は

 今日の Rohilkhand と中央 Doab の一部分に相当する。

 この国は

 「北部パンチャーラ」と

 「南部パンチャーラ」とに分かれ、

 ガンジス河(Bhagirathi)がその境界線であった。

 前者の首都は Ahicchatra であり、

 後者の首都は Kampilyaであった。

 クル人とパンチャーラ人とは

 古来北部パンチャーラの支配権を争って戦った。

 プラヴアーハナ・ジャイヴァリ以後の

 パンチャーラ国王のことは何も知られていないが、

 ミィティ ラーの Nimi王と同時代の人として

 Durmukha(Dummukha) があり、

 またCulani Brahmadatta という偉大な王の

 あったことが知られている。

 「マツヤ国」

 マッヤ(Matsyya)国の首都はヴィラータナガラ

 (Viratanagara今日のジャイプル州のバイラート)とであった。

 この国のことはすでに述べておいたが、

 ある時期には隣国のチェーディ王国に併合され、

 最後にはマガダ帝国に征服された。

 「シューラセーナ国」

 シューラセーナ(Surasena)国の首都は

 マトゥラー(Mayhura)である。

 叙事詩およびプラーナ聖典によると、

 マトゥラーはヤーダヴァ(Yadava) 族が支配していたが、

 ヤーダヴァ族はさらにVitihotra 族、Satvata 族などに分かれ、

 またサートヴァタ族はさらに Daivavrdha族、Andhaka 族、

 Mahabohoja 族、Vrsui 族などに分かれていた。

 ヤーダヴァ族の祖先はYaduという人であるとされているが、

 ヤドゥは

  Turvasa という人とともに言及されていることが多い。

 なおヴリシニ族やアシダカ族は共和政体(Sangha)を

 形成していたことが、

 古文献のうちに伝えられている。

 「アッサカ国」

 アッサカ(Assaka;Skrt. Asmaka またはAsvaka)国は

 ゴーダーヴァリー(Godavari)河の岸にあった。

 この国の首都は

 Potana, Potali, Paudanya などと呼ばれている。

 その北には Mulaka 国あり、

 南にはカリンガ国に隣りあっていた。

 アッサカ国はときにはカーシ国に従属していたが、

 ときにはトリンガ国を征服したこともある。

 「アヴァンティ国」

 アヴァンティ(Avanti)国はほぼ今日の Malawa、

 すなわち

 ウッジャイン地方およびナルマダー河渓谷の一部に相当する。

 この国はときには、

 アヴァティとマーヒシマティー(Mahismati=Mahissati)

 とに分けて考えられることもあった。

 プラーナ聖典によると、

 マーヒシマティーの最初の王朝はHaihaya 族と呼ばれる。

 この一族はNarmada 河流域の土着民であった

 Naga 族 を征服して支配者となった。

 このハイハヤ族はVitihotra 族、Bhoja 族、Avanti 族、

 Kundikera 族、(または Tundikera 族)、

 Talajangaha族の五つに分かれていたという。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年9月8日火曜日

ハンムラビの後継者


 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪アズミ族の正体≫ハンムラビの後継者

 出典:「古代のメソポタミア」マイケル・ローフ
   :朝倉書店
    交易と交戦:122~123頁

 ハンムラビの王位は争い事もなく

 息子のサムス・イルナ継承にされた。

 しかし前1742 年、サムス・イルナの治世第9年、

 南の競争相手、ラルサのリム・シン2世に

 ニップルを占領されている。

 もっともサムス・イルナが

 次の年にニップルの都市支配を奪回しているので、

 リム・シンの征服は革命であった。

 2 年後の前1739年、

 南メソボタミアにはある災難がおこっている。

 ニップル出土の粘土板は、

 そのとき経済的にも危機があったということを示している。

 土地の価格は落ちこみ、

 土地や神官の役所の販売件数は急に増加した。

 この災難の一つのあリそうな原因、

 サムス・イルナがリム・シンを降伏させるために、

 バビロンの南を流れていたユーフラテス川の水を

 迂回させたことのようだ。

 サムス・イルナの第11年は、

 ウルクとラルサの壁の破壊の後、と命名さている。

 そしてウルの発掘によれば、

 都市が本当にこの時に破壊されたということがわかっている。

 リム・シンは最終的には前1737 年に破れた。

 ニップルはこの難局をきリぬけたが、

 20 年後には、よリ南の諸都市のように見捨てられ、

 半世紀間荒れはてた状態におかれていた。

 後の伝説によると、

 海の国第1 王朝が南を支配していたらしいが、

 その当時のこの地域での

 彼らの存在に関する文献や考古学的証拠は、

 これまでのところみつかっていない。

 とはいえ、バビロンのアムル王朝は生き残リ、

 マリ近くまでのユーフラテス川ぞいの諸都市の

 支配を行使しつづけた。

 マリに支配されていた上流の地域では、

 マリの滅亡後ハナが独立し、

 首都テルカのもとに栄えた。

 テルカの平凡な家屋の発掘中にみつかった壷型土器には、

 メソポタミアの交易網が極東にまでとどいていたことを示す

 チョウジが入っていた。

 その頃のチョウジの自然生息地は東インドであリ、

 東アフリカにもちこまれたのはずっとあとのことである。

 古バビロニアによる支配の最後の100 年間、

 年名に戦争のことがあげられていない。

 しかしこの後半、

 とくにアンミサドゥカの治世(前1646-26 )

  考えられる時期に、

 二つの重要な文書

 「アンミサドゥカの勅令」と

 「金星文書」がある。

 アンミサドゥカの勅令は、彼の治世第1 年に発布されておリ、

 先の治世の間に増加したアウィルム階級の個人負債

 取リ消しのための国王布告であった。

 ハンムラビなど初期の支配者たちも

 国の経済活動を助けるために、

 類似した布告を発布してしいる。

 金星文書は金星の昇降の観測記録であり、

 アンミサドゥカの年名の一つを言及していることから、

 おそらく彼の治世年間につくられたと考えられている。

 この記録に残っている金星の運行周期は、

 ある特定の時期にしかおこりえないものであリ、

 その周期のくリ返しには60 年も間があいている。

 このため金星文書はアンミサドゥカの治世と

 その王朝の他の支配者たちの年代を決める元となっているが、

 解釈によって、この時期の編年には、

 60 年ないし120 年の違いがある。

 (本書で使った)中期編年は、

 ハンムラビの治世を前1792-50 年においている。

 よリ一般的になってきている長期編年は、

 前1848-06 年にハンムラビの治世をおいているし、

 アナトリアとレヴァントで仕事をしている

 多くの研究者がかつて採用していたが、

 今日その信奉者は少数となった短期編年は、

 前1728 -1686 年にそれをおいている。

 将来うまくいけば、

 この時代には数千もの粘土板があるのだから、

 そのなかで、

 よリ正確な日付のわかる食のような天文現象と、

 この時代の出来事とを結びつけるような文書が

 発見されるかもしれない。

 またはレヴァント地方の調査で、

 より確実な証拠によって年代づけられている

 エジブトの年代とメソポタミアの年代を

 関連させるものがみつかるかもしれない。

 古バビロニアの文書に記録されているように

 近東の民族移動は絶え間なくつづいた。

 かつてはアムル人やフルリ人が

 メソポタミアとの抗争をくり返していたが、

 その後も続々と新しい民族が流入していった。

 力ッシート人は

 サムス・イルナの治世第9年に初めて言及されているし、

 ヒッタイト人は前16 世紀の初めに

 メソポタミアに現れたらしい。

 ヒッタイト人の王ムルシリは、

 前1595 年にユーフラテス川下流に行軍して、

 バビロンを略奪、バビロン第1 王朝を滅亡させ、

 これまでのところほとんど情報のない

 およそ150 年つづく暗黒時代の案内役を務めた。

 「写真」上端

     ウルク期の粘土板にみられる荷車の絵文字は、

     車輪を示す二つの輪がついている以外は、

     橇を示すものと同じである。

     この石板は雄ウシに曳かせた橇で移動する

     支配者を示しておリ、

     おそらく前3000 年頃のものである。

 「写真」二段目

     北シリア出土の幌つきワゴン形土製品。

     前3 千年紀後半.幌つきワゴンは、

     前1 千年紀半ばに近東に侵入した

     スキタイ遊牧民にも用いられていた。

 「写真」上

     戦車を曳いてぺルセポリスの

     ぺルシア王のところに向かう

     リュディア人を示す浮彫リ。

     前485 年頃、戦車は戦争や行列だけでなく

     伝令にも用いられ。

 「写真」左

     ウルの王家の墓地の王妃ブアビの墓から出土した

     橇の復元模型。

     橇は2 頭のウシが曳いた。

     橇はアッシリア宮殿の巨大な有翼雄ウシ石像など

     重いものを運ぶのにも用いられた。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ