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『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦
≪アズミ族の正体≫インド洋のシルクロードの始まり
課題:古代にローマ帝国は極東の絹を熱望した
―古代世界における海洋交易の実相―
―古代世界における海洋交易の実相―
出典:海のシルクロードを求めて
三菱広報委員会:平成元年
(R・C・シャルマ訳・小倉泰)
三菱広報委員会:平成元年
(R・C・シャルマ訳・小倉泰)
「インド洋のシルクロードの始まり」
インド洋は、
その懐に抱かれている国々の歴史的な
数々の目ざましい事件の大きな舞台となってきました。
この海はアフリカ南部からオーストラリア南部にかけての
一万キロメートルに及ぶ広大な海域を占めています。
しかし、地球上の総海洋面積からみると
そのわずか五分の一と比較的小さく、
このような特性から他の海域と比べて
よく人の通う海になっていますし、
他の海洋よりも、しばしば利用されています。
インド洋は隣接する海域、
つまり、アラビア海、ベンガル湾、南シナ海を通じて
東西の架け橋となってきました。
西の地中海世界と、東の中国や日本は地理上の距離でいえば
非常に離れていたにもかかわらず、
数々の海洋的冒険によって一つに結ばれていました。
ソコトラ島(南イエメン)、セイロン、アンダマン諸島、
マラヤ、ジャワ、スマトラなど、
マダガスカルからオーストラリアの間に散在する
多くの大小の島々は
通商と文化の絹の紐で結ばれていました。
中国からの絹糸でつくられた各種の織物や製品が、
広大な海と地理的な変化や遠い距離を超えて、
インド・アラブ、ヒンドゥー、インドネシア、中国という
少なくとも四つの異なる文明社会を一つに織りなしていたのです。
絹に対する需要はもちろんたいへんなものでしたが、
その他にも奈良からローマ、あるいはそれ以遠に及ぶ
シルクロード周辺に存在した国々の間で
交易された品物は数多くあります。
香料真珠、宝石、木綿等が南や西の国々から、
そして絹、翡翠、漆器、陶磁器等が主として
北や東の国からもたらされていました。
このような通商や文明のつながりのなかで、
インドの占める位置は独特のものでした。
この国はまずインド洋に深く分け入っていて、
東西の二つの別々の海域に分けています。
第二に、インドは仏教によって国際的に認められた哲学を
シルクロード周辺の人々 に与え、
彼らの生活に深い影響を与えたのです。
仏教は、
絹や香料その他の品々よりはるかに人を惹きつけたかもしれません。
黄金の道、すなわち中道(マッジマパテイパダー)は
数世紀にわたって多くの国々の多数の人々が
辿る人生の道となりました。
絹と仏教は、人の体と心のように一体のものとなっていたのです。
絹の衣を握った僧侶が仏の教えを広め、人類を一つに結んだのです。
その他にも、インドの土から生まれたヒンドゥー教、
あるいはバラモン教は東方のいくつもの国々で愛情をこめて受容され、
これらの国々では
『ラーマーヤナ』 や
『マハーバーラタ』などの物語が
それらの社会の独特な性格をつくり上げるもととなっているのです。
このようなインド洋地帯での通商や宗教の交流が
いつ頃から始まったのは定かではありません。
インダス文明の遺跡、
とくにロータル(グジャラード)で発掘された
造船所の遺跡から発掘物によって、
紀元前3000年にはすでに西岸(インド洋)では
海洋活動が十分発達していたことが証明されています。
また、このことは沿岸航海によって運ばれたに違いない
インドチーク材がウルで発見されたことによっても
裏付けられているのです。
ペルシアのダリウス大王(紀元前6~5世紀)は、
陸路、海路をを通ってペルシアとインドを結ぼうと試み、
船団をインダス川に送っています。
また、インドの船も定期的にペルシア湾、
南アラビアのアデンあるいはソコトラに通っていました。
ストラボンの報告では、毎年120 隻の船が
陸路、海路をを通ってペルシアとインドを結ぼうと試み、
船団をインダス川に送っています。
また、インドの船も定期的にペルシア湾、
南アラビアのアデンあるいはソコトラに通っていました。
ストラボンの報告では、毎年120 隻の船が
アウグストゥスの時代(紀元前27年~紀元14年)に
ミュオス・ホルモスからインドに通ったという記録があります。
同じ頃ギリシアの航海家ヒッパロスは
ミュオス・ホルモスからインドに通ったという記録があります。
同じ頃ギリシアの航海家ヒッパロスは
夏に吹く南西の季節風を利用して
アラビアからインドへ直行する航海法を発見しています。
しかし、ヒッパロスというのは人の名前ではなく、
アラビアからインドへ直行する航海法を発見しています。
しかし、ヒッパロスというのは人の名前ではなく、
北インドの人々 が夏の西風につけた名前だという説もあります。
ペリプリュスにはマラバール沿岸にあった
サンガラという大きな船のことが載っています。
紀元前には交易のためにローマ人がインド洋に現われ始め、
堅牢ですぐれた設計の船によって
インドや東南アジアの市場をみつけるのに大きな成功を収めています。
彼らはすぐにこの地城の産物、とくに絹に惚れ込んでしまい、
ローマの黄金がこの地域に流れ込み始めたため、
ティべリウス帝(14~37年)は黄金の流出を防ぐため
臣下が絹の衣服を纏うのを制限しなければならなかったほどです。
これによって最後にはローマ人の姿がインド洋から消えてしまい、
カラカラ帝(212~217年)以降のローマ金貨は
インドには持ち込まれていません。
品質の優れた中国の絹に対する西側の国々の需要が
非常に高かったことは間違いありませんが、
インドの絹も、とくにプロコピウス(512年)等は
よく勤めていたとりフ記録もあります。
このような事実から
商人の間の競争心も結構あったことがわかります。
ローマの交易が衰えたことで、
インド洋における仙の国々の活動が活発になり、
今度は注意が東南アジアに向けられるようになりました。
当時すでにインドは沿岸のいくつかの地域との
海上交通を確立していました。
インドの航海家が
紀元前7世紀にはすでに中国に達していたとする
(チャールス・バーリンデンのような)学首もいます。
アショーカ王の時代には船は東に向けて航海をしていました。
王の息子マへーンドラは周辺の国々へ船で何度も海を渡っており、
インドやセイロンの年代記にも
セイロンの名は繰り返し現われています。
これは後の考古学の発掘でも立証されています。
マウリヤ朝時代とされるカウティリアの
『実利論』(アルタシャーストラ)に
スヴァルナブーミ(黄金郷)の記録があります。
紀元前にまとめられたジャータカの物語は
主として仏陀の前生についての物語ですが、
これにも宝物を求める航海の話が出てきます。
マハージャナカ・ジャータカは
有名なアジャンターの壁画によく出てくる題材ですが、
これにも貨物船で東へ向かった王子の船が嵐で沈んだものの、
なんとか命は助かった、という物語が描かれています。
アジャンターの壁画には紀元前に使われた船も何種類か描かれています。
歴史上では、1世紀初頭の『漢書』 に
中国インド間の海上交易に関する信頼性のある記録が
載っているようですが、
一部の土地名については議論のあるところとなっています。
プトレマイオスは、
紀元後の初期におけるインドおよびインドシナ経由で行なわれた
ローマと中国の交易について報告しています。
この活動のなかでは、最初にインド化されたカンボジアのフナン
(扶南)が、主要な仲介者となったものと思われます。
これは考古学的な発見、
なかでもフナンやチャンパの近くでみつかっている
ブラーフミー文字の碑文で立証されています。
ここでは、インドから来たバラモンの若者がナーガ王の娘と結婚し、
父親が結婚の祝いとして湿地を干拓しこの若い二人に与えた、
と書かれています。
これは、
インド人がこの地域を
真の黄金郷(スヴアルナブーミ〉 としようとした
努力が物語に暗示されています。
中国の使節がフナンの土地に着いたとき、
そこには金、銀、真珠、香料、香水や、農産物にあふれ、
人々は闘鶏や闘豚、舟遊びに夢中で人生を楽しんでいた、
とあります。
日本とインドのつながりは、
538年10月13日に百済の聖明王が
仏像を大和にある日本の国王に贈ったという
間接的な形で始まりました。
それ以来シルクロードの東の端にあるこの美しい国には
仏教が受けいれられてきました。
インド洋のシルクロードによって、
いくつもの重要な都市、港、記念物、美術の中心などが
生まれてきたといえるでしょう。
「地図に見る地理認識」
地図は、古代・中世の人々 がいかに世界をとらえ、
海や陸を思い描いていたかを物語る貴重な資料である。
それぞれの時代の世界認識の傾向 が、そこから確実に伝わってくる。
「地図」①
プトレマイオスの地図(6世紀)。
不明な陸地は「テールラ・インコグニタ」(未知なる土地)と記され、
インド洋は湖のように描かれている。
「地図」②イドリーシーの地理書『世界地誌』に付された世界地図(12世紀)
南が上である。
アフリカ大陸の中央部に「月の山」があり、
そこからナイル川が流れ出ている。
陸地は周海とカーフの山脈によって取り囲まれ、
インド洋と地中海が入り込んでいる。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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