2015年11月9日月曜日

≪アズミ族の正体≫『日本書紀』講義と解釈


 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪アズミ族の正体≫『日本書紀』講義と解釈

 課題:古代の絹の産地と魏書倭人章の国々
    ―西方絹貿易商人たちの居留地―

 日本紀私記零本 巻首欠 185~187頁

 面國遣使奉献。注曰。倭國去薬浪万二千里。

 男子皆鯨面文身。似別尊卑大小。云〃。

 問。 倭國之中有南北二倭。其意如何。

 師説。延喜説云。北倭可為此。南倭女國。云〃。

    此説己无證據。未為。

    全得。又南北二倭者是本朝南北之邊州也。无可指由。

 問。此倭字。訓。其解如何。

 師説。延喜説。漢書晋灼如淳各有注釋。然而惣无明訓之字也。今案。

    諸字書等中。亦无指讀之。

 問。耶馬臺。耶靡堆。耶摩堆之号。若有各意乎。

 師説。今案。雖有三号。其義不異。皆取稱倭之音也。 

 以下省略

 「参考」

 『続日本紀』に、養老4年(720)5月、

 舎人親王が勅をうけて編纂していた『日本紀』が完成したとある。

 これが『日本書紀』である。

 『日本書紀』についてはその成立直後から講義が行なわれたらしく、

 講師である諸博士がその内容を記録した私記(の一部)が残されている。

 私記には

 「養老私記」

 「弘仁私記」

 「承和私記」

 「元慶私記」

 「延喜私記」

 「承平私記」などがあり、

 これらの私記は『日本紀私記』(『日本書紀私記』ともいう)として、

 また諸書(『釈日本紀』など)に引用され今日に伝えられている。

 『日本紀私記』『釈日本紀』など、

 『日本書紀』の注釈書の類は私の研究対象とするところではないので、

 詳細はその道の専門家にお任せするが、

 実は『日本紀私記』と『釈日本紀』には、

 面白いというか少し気になる記事がある。

 そこで今回はそれを紹介するとともに、

 その道の専門家とは別の見方で、

 その意味するところを探ってみることにした。

 『日本紀私記』は『国史大系8』、

 『釈日本紀』は『国史大系8』及び『続日本古典全集』によった。

  日本紀私記

 『日本紀私記』弘仁私記序

 ①夫日本書紀者 

  a日本國 自大唐東去万餘里 日出東方 曻于扶桑 故云日本 

  b古者謂之倭國 伹倭義未詳 或曰 取稱我之音 漢人所名之字也 

  c通云山跡 山謂之邪麻 跡謂之止 音登戸反下同 

  d夫天地部判泥濕未慘 是以栖山徃來 因多蹤跡 故曰耶麻止 

   又古語謂居住爲止 住於山也 音同上 e武玄之曰東海女國也

 ※a~eは便宜上:矢治がつけた

 『日本紀私記』零本

 ②  面國遣使奉獻 注曰 倭國去樂浪万二千里 男子皆黥面文身 

    以別尊卑大小 云々 

 ③問 此倭字訓 其解如何 

    師説 延喜説 漢書晉灼如淳各有注釋 然而惣无明訓之字也 今案

    諸字書等中 亦无指讀之 

 ④問 邪馬臺 邪靡堆 邪摩堆之号 若有各意乎 

    師説 今案 雖有三号 其義不異 皆取稱倭之音也 

 ⑤問 書字之訓乎不美讀 其由如何

    師説 昔者新羅所上之表 其言詞大不敬也 仍怒擲地而踏 

    自後訓云不美 是先師之説也 今案 蒼頡見鳥跡(踏)地所徃之跡 

    以作此文字也 不美と可謂之訓 依此起歟 

 ※( )内の字はそのように訂正すべきと思われるもの。

 ※蒼頡は中国古代の伝説上の人物で、

  鳥の足跡を見て文字をつくったという。


 釈日本紀

 『釈日本紀』巻第一開題

 〈日本國 倭國〉

 (1)弘仁私記序曰 

   a日本國 自大唐東去万餘里 日出東方 曻于扶桑 故云日本 

   b古者謂之倭國 但倭義未詳 或云 取稱我之音 漢人所名之字也 

   c通云山跡 山謂之邪麻 跡謂之止

 (2)問 倭字之訓 其解如何

   答 延喜説 漢書晋灼如淳各有注釋 然而揔無明訓字 今案 

     諸字書等中 又指無訓讀 

      東宮切韻曰 陸法言云 烏和反 東海中女王國 長孫納言云 

         荒外國名 薩珣云 

     又於危反 順[白の下にハ] 孫愐云 從[白の下にハ] 

         東海中日本國也

     玉篇曰 於爲反 説文云 順[白の下にハ]詩云 又爲禾反 國名

 (3)問 唐國謂我國爲倭奴国 其義如何

   答 師説 此國之昔到彼國 唐人問云 汝國之名稱如何 自指東方答云

        和加(奴)國耶 云々 和奴猶言我國 自其後謂之和奴國 

         或書曰 筑紫之人隋代到彼國 稱此事 

  又問 若然者 和奴之号起自隋代歟

   答 此号非隋時 然則或書之説未爲全得

 (4)問 大倭 和奴 日本 三名之外 大唐別有稱此國之号哉

   答 師説 史書中耶馬臺 耶摩堆 (邪靡堆) 倭人 倭國 

         倭面等之号甚多 伹史官所記 只通音而曰更無他義

 (5)又問 倭面之号 若有所見哉

   答 後漢書云 孝安皇帝永初元年冬十月 倭面國遣使奉獻 

          註曰 倭國去樂浪万二千里 男子皆點面文身 

   以其文左右大小 別尊卑之差

 (6)問 邪馬臺 邪摩堆 (邪靡堆)之号 若各有心哉

  答 師説 雖有三号 其義不異 皆取稱倭之音也

      〈本朝号耶麻止事【日本倭國(同)号之】〉

  ※( )内の字はそのように訂正すべきと思われるもの。

 (7)弘仁私記序曰

   d天地部判 泥濕未乾 是以栖山往來 因多蹤跡 故曰耶麻止

    又古語謂居住爲止 言止住於山也

 (8)延喜開題記曰 師説 

   d大倭國 草昧之始 未有居舍 人民唯據山而居 仍曰山戸 

 是留於山之意也 

    又或説云 開闢之始 土濕而未乾 至于登山 人跡著焉 仍曰山跡

 (9)問云 諸國人民倶據山而居耶 將只大和國人民猶(獨)據山耶

   説云 大和國猶(獨)有此事

  ※国史大系では( )内の字となっている。

 『釈日本紀』巻第十六 秘訓一

  〈日本書紀巻第一〉

 (10)私記曰 

   d天地部判 泥濕未乾 是以栖山往來 囙多蹤跡 故曰山跡 

    山謂之邪麻 跡謂之止

    又古語謂居住爲止 言止住於山也

 (11)問 書字乃訓於不美止讀 其由如何 

   答 師説 昔新羅所上之表 其言詞太不敬 仍怒擲地而踏

     自其後訓云不美也 

     今案 蒼頡見鳥踏地而所往之跡作文字 不美止云訓依此而起歟


 倭奴国の由来

  まず『日本紀私記』の①からみていくことにする。

 ①はその内容からa~eの五つに分けることができる。

 『釈日本紀』にもa~eそれぞれに対応する記事が書かれているが、

 私の興味を引いたのはこのうちのb、dである。

 ここではb、dに絞って考えることにする。

 ①-b〔 (1)-b、(3) 〕について

  これは、「日本は古くは倭国といったが、倭の意味はよくわからない。

 “我”の音を取って漢人がつけたともいわれる」という意味であるが、

 これについて『釈日本紀』は(3)の「問-答」の形の中で、

 より詳しく書いている。

 そこでは、

 「唐国は我国のことを倭奴国というが、その理由はどういうことか」

  という問に、

 「昔この国の人が唐国に行ったとき、

  唐人が“あなたの国の名は何というのか”と聞いたので、

  その人は東方を指して“わが国のことか” と聞き返した。

  “和奴”は我国の意味であり、それ以後“和奴国”というのである。

  ある書に、筑紫の人が隋の時代に中国に行き、

  こう言ったと書かれている」

 という師の説を答えとしている。

 また「和奴という呼び方は隋代に起こったのか」

 という問に対しては、隋代ではないとしている。
 
 しかしながら、

 そもそも中国側が、

 中国皇帝に会おうという相手の国名を知らないわけがなく、

 「あなたの国の名は何というのか」と聞くこと自体不自然である。

 またもしそう聞かれても、通訳もいたろうから、

 日本語で「わが国のことか」と聞き返すことなどありえない。

 しかもその聞き返した言葉を、

 中国がその国の名と勘違いしたなどというのは、

 さらにありえない話である。

 こんな子供だましのような話が、

 国家の問題として堂々と講義されていたということに、

 私は唖然としてしまう。

 『日本紀私記』では「我国→倭国」であるが、

 『釈日本紀』では「我国→和奴国」であり、

 内容も具体的になっているところをみると、

 時間とともに創作も少しずつ加わったのではないかと想像される。

 『釈日本紀』では、倭奴国という名は我国という音に由来し、

 その時代は唐代とも、また或書では隋代だともされている。

 しかし「唐国は我国のことを倭奴国というが・・・」というのは、

 『旧唐書』の「倭國者古倭奴國也」、

 『新唐書』の「日夲古倭奴也」によったものと思われ、

 これはそんなに新しい時代のことではない。

 「和奴国」とは「倭奴国」のことだといっているのだから、

 それは57年に光武帝から印綬を賜った

 「倭奴国」のことでなければならない

 (『日本紀私記』では漢人が名づけたとあるが、

  それは倭国のことであり、

 この倭奴国であるという意識はないようである)。

 倭奴国は57年にはすでに存在していたのであり、

 「我国」とはまったく無縁の存在である。

 もしこの歴史ある倭奴国を知っていたのであれば、

 この国の名の由来を「我国」とするはずはないのであり、

 この「我国」記事があること自体、

 「倭」の持つ意味は弘仁時代(810~823)には

 すでに完全に忘れ去られてしまっていたことを示すものといえる。

 「倭奴国」の「倭」の意味もわからなくなっていたということである

 (意図的にそうしたということも考えられる)。

 「倭」はすでに本来の意味を失い、

 「ヤマト」の意味しかなく、

 「倭」を「ワ」と発音するときは、

 万葉仮名の「倭」でしかなくなってしまっていたのである。

 ここに「倭」を「ヤマト」としか読まなくなってしまった

 人たちの存在も浮かび上がってくる(倭人ではない人たち)。

 さらに『旧唐書』の

 「倭國者古倭奴國也」は「倭国=倭奴国」を意味するものではなく、

 倭国は倭奴国をその始まりとする、という意味であると私は考えている。

 これは『後漢書』や『魏志』倭人伝を読めばわかる。

 57年に登場する倭奴国は倭国の極南界にあったのだから、

 倭国そのものではなく倭国構成国の一つであった。

 倭国王がはじめて登場するのは107年のことであるが、

 その百年あるいは百数十年後に共立され倭国王となった

 卑弥呼は邪馬臺国の王でもあった。

 このことから考えると、

 はじめての倭国王も倭国を構成する国の中の一国の王であった、

 とみてよいのではないか。

 そうすると、

 敢えて倭国構成国の一つである倭奴国を

 古の倭国あるいは日本だということは、

 “倭奴国が初代倭国王を出した国であったことを表現したもの”と、

 とらえることができるのである。

 『新唐書』は『旧唐書』の倭国を

  日本にすり替えたものであるから何ともいえないが、

 もし『新唐書』の「日本は古の倭奴である」も真実だったとすると、

 倭奴国は九州北部にあったから、

 日本のルーツも九州北部にあったことを

 ヤマト自ら示していることになる。

 ところで「我国」とは当然日本のことであるが、

 日本は「やまと」と読む。

 「倭奴国」は「我国」に由来するとするから、

 倭奴国も当然ヤマトということになる。

 「倭」を「ワ」と読みながら、「倭奴」はヤマトのことだとする。

 だから『日本書紀』の講義をした人たちは、

 「倭奴国」は九州の倭奴国とみることは決してなかった

  (事実は承知していたかもしれないが)。

 それから千数百年の時は流れ、

 多くのきちんとした資料をみることができる今日では、

 「倭奴国」は「我国」に由来すると考えている人は

 まさかいないと思うが、

 「倭奴」はヤマトのことだとする人は、

 今も、それもかなり著名な学者の中にもいるようである。

 『日本書紀』講義の力、恐るべし、である。

 「やまと」の語源

  ①-d〔 (7)、(8)、(9)、(10) 〕について

 天と地がわかれ土地が湿りまだじめじめしていたので、

 人は山に住み行き来した。

 それで足跡が多く残ったので「やまと」といった。

 また古語では居住することを「止」といい、山に住むことをいった。

 「やまと」とは、人々が山に住んでいたことから付いた名だと、

 ここではいう。

 また『釈日本紀』の「延喜開題記曰」には、

 (9)の「諸国の人たちはともに山に住んだのか。

 それとも大和国の人だけが山に拠ったのか」という設問があるが、

 師の説では大和国だけである、という答えになっている。

 山に住んだのは大和国の人たちだけだったから、

 この地だけが大和と呼ばれた、

 ということになるが、それでは、

 天と地がわかれ土地が湿りじめじめしていたのは

 大和だけだったということになってしまう。

 何とも自分勝手で切ない説である。

 「やまと」の語源にはこのほかにも、

 「山の入口(山門)」説などもあるが、山に住んだから、

 山の入口にあったからなどという理由であれば、

 「やまと」は日本全国無数に存在する。

 この「やまと」語源説は子供だましともいえない稚拙なものに映る。

 この時代にはすでに、「倭」をなぜ「やまと」と読むのかも、

 また「やまと」そのものの語源も

 わからなくなっていたということになるが、

 もしかしたら、倭奴国の名の由来も含めて、

 わざわざ子供だましのような話しをつくり、

 「倭」と「やまと」の歴史を

 わからなくさせてしまおうという狙いがあったのかもしれない。

 面国とは

  ②〔 ③、(2)、(5) 〕について

 「面国」とは「倭面国」のことであるが、

 その国名は各史書によって異なっている。

 
 『漢書』地理志 

  如淳曰如墨委面在帯方東南萬里

  師古曰如淳云如墨委面蓋音委字耳此音非也倭音一戈反今猶有

  倭國魏略云倭在帶方東南大海依山島爲國度海千里復有國皆倭種

 『通典』

  安帝永初元年倭面土國王師升等獻生口(北宋版)

  安帝永初元年倭面土地王師升等獻生口(松下見林『異称日本伝』所載)

 『翰苑』

  後漢書曰安帝永初元年有倭面上國王師升至

 『釈日本紀』

  後漢書云孝安皇帝永初元年冬十月倭面國遣使奉獻註曰

  倭國去樂浪萬二千里男子皆點面文身以其文左右大小別尊卑之差

 『日本書紀纂疏』

  倭面國此方男女黥面文身故加面字呼之

  安帝永初元年倭面上國王師升献生口百六十人


 倭面国については拙著『縄文から「やまと」へ』で詳述したので、

 ここでは多くは述べないが、これらの史書以外の史書を参考にすれば、

 委面、倭面土国、倭面土地、倭面上国、倭面国はすべて倭国

 (「やまとのくに)ではない)のことであることが容易にわかる。

 この中で倭面土国は、無理やり「やまとのくに」と

 読めば読めるため(かなり苦しいが)、

 邪馬台国畿内説の人たちは、

 委面、倭面土国、倭面土地、倭面上国、倭面国を

 ヤマトと読み畿内ヤマトに当てている。

  ③(2)には、「倭」の訓について、漢書に晋灼と如淳の注釈があるが、

 この字のはっきりした訓はないとある。

 漢書の晋灼と如淳の注釈とは

 「委面」についてのことではないかと思われるが、

 このことは、中国には「倭」「委面」を「やまと」と訓む読み方は

 存在してなかったことを示している。

 つまり中国が書く

 「倭、委面、倭面土国、倭面土地、倭面上国、倭面国」は

 ヤマトではない、

 ということを物語っているといえるのである。

 しかしそれでも、

 『私記』の講師や邪馬台国畿内説の人たちは、

 これを「やまと」と読みたがる(中国史書における倭に限る)。

 ただ『私記』の講師は、倭はヤマトのことだと教えていても、

 『漢書』注には倭を「やまと」と訓む読み方は見つからない、

 と事実をもって答えていて正直である。

 それに対し現代の研究者は③(2)の記録を無視したまま、

 中国史書における「倭」も「やまと」と読んでいる。

 不誠実であるとともに、これでは史料が何のためにあるのかわからない。

  面国は倭面国であり倭国のことであるが、

 『漢書』地理志顔師古注の

 「如墨委面」から、倭面土国、倭面土地、倭面上国、倭面国には

 「委面の国」という意味があるとみてよい。

 「委面」とは「入墨をした顔」のことであるから、

 倭面土国、倭面土地、倭面上国、倭面国も

 「顔に入墨をした人たちの国」を意味する。

 つまり「倭面土」とは、「ヤマト」を

 音で表現したものなどでは決してないということになる。

 面国は倭国のことであるが、

 それは「わこく」であり

 「やまとのくに」ではなく、したがって日本でもないのである。


  邪馬臺、邪靡堆、邪摩堆の訓

 ④〔 (6) 〕について

 邪馬臺、邪靡堆、邪摩堆はそれぞれ字が異なるが、

 その意味に違いがあるのか、という問に、

 師は、その意味に違いはなく、みな「倭」の音をとったものだ、

 と答えている。

 「倭」の音とは「やまと」であるが、

 おもしろいことに

 『続日本古典全集』の『釈日本紀』には

 ところどころにフリガナがあり、

 邪馬臺には「ヤマタイ」とフリガナがふってある。

 このフリガナはいつ誰が付けたものなのかわからないが、

 少なくともこのフリガナが付けられた時代までは、

 邪馬臺は「やまと」とは読まれていなかったことがわかる。

  師の答えによれば、

 邪馬臺、邪靡堆、邪摩堆は「倭」の訓だということになる。

 それならば邪馬臺には

 「ヤマト」とフリガナがあってしかるべきはずなのである。

 『私記』による教育はあっても邪馬臺を

 「やまと」と訓む読み方はなかなか浸透しなかったものとみえる。

 邪馬臺、邪靡堆、邪摩堆は「倭」の訓だといっても、

 万葉仮名からは「やまと」とは読めなかったというのが

 真実なのではないだろうか。

 だいたい邪馬臺、邪靡堆、邪摩堆は「倭」の訓ではないから、

 この結果は当り前といえば当たり前なのである。

 念のためにいっておくと、

 邪摩堆は『隋書』の邪靡堆のことであり、

 邪靡堆は『魏志』の邪馬臺(邪馬壹)のことであり、

 邪馬臺(邪馬壹)は倭国の代表国である。

 邪靡堆は俀国(倭国)の都となっているから、

 邪馬臺は倭国の代表国からその都になったのである。

 つまり倭国は邪馬臺ではなく、

 当然邪馬臺は倭国を音で表現したものではないのである。

 この問に対する答えは、

 中国史書を読んでいる人であれば、

 明らかな間違いであることはすぐわかる。

 『私記』はそれを敢えて「倭=邪馬臺」に結びつけた。

 なぜか。

 それは日本が倭国に代わって日本列島の代表として生きていくためには、

 どうしても伝統ある倭国の歴史が必要だったからである。

 その方針と教育は功を奏し、

 現代においても邪馬臺を「やまと」と読み、

 中国史書にある「倭」までも「やまと」と読む人たちが後を絶たない。

 途中の歴史では邪馬臺は「ヤマタイ」であるから、

 どうも現代の方が『私記』の感染力は強くなっているようである。


 書を「不美」と読むこと

  ⑤〔 (11)〕について

  なぜ「書」を「不美」と読むのか、という問である。

 これに対し師は、昔新羅の表に大いに不敬な言詞があり、

 怒り地面に投げつけ踏み潰した、

 それでそれ以後「不美」と訓むのであるが、

 これは先師の説だと答えている。

 また、

 鳥が踏み歩いた足跡を見て蒼頡が文字を作ったという故事を引き、

 「不美」という訓はここからきたのではないか、と付け加えている。

 「新羅所上之表」とあるが、新羅がはじめて上表したのは、

 『日本書紀』によれば推古天皇29年(621)のことである。

 その2月条には、

 「是歳 新羅遣奈末伊彌買朝貢 仍以表書奏使旨 

  凡新羅上表 蓋始起于此時歟」とあるが、

 この時もそれ以後も、

 新羅の表に対してこのような行動をとったという記録は特にない。

 応神天皇28年(423)9月条には、

 「高麗王遣使朝貢 因以上表 其表曰 高麗王敎日本國也 

  時太子菟道稚郎子讀其表 怒之責高麗之使 

  以表状無禮 則破其表」とあり、

 「不美」の事件に近い状況が書かれている。

 しかしこれは新羅ではなく高麗である。

 特に根拠らしい根拠はないのであるが、

 『私記』の講師は

 この高麗の事件を新羅の事件に

 すり替えたのではないかと私は疑っている。

 『日本書紀』は百済滅亡・白村江敗戦以後、

 日本人になった百済系渡来人が中心となり

 書いたものではないかと私は考えているが、

 そこでは新羅は常にヤマトと百済に敵対する国として描かれている。

 百済滅亡以来、

 新羅は百済にとって憎んでも憎みきれない仇となったのであり、

 「不美」の由来を新羅の表を踏みつけたという行為に求めることで、

 その気持ちを晴らしたのではないかと想像するのである。

 このように想像するのも、

 この表を踏みつけるという行為が事実だったとしたら、

 その愚かしい行為が

 文化の象徴ともいえる文字の訓になったことになり、

 それはとてもありえないことに思えるからである。

 講師は蒼頡の故事を引いているが、

 文字の起源としては鳥の足跡の方が重要なのであり、

 踏むという動作ではない。

 しかし講師はその踏むという動作に重点を置き、

 高麗の事件を新羅の事件にすり替え、

 新羅の表を踏みつけたことにして、

 そこに「不美」の由来を見出したのである。

 以上はあくまでも私の想像であるが、

 「不美」の由来の真実は

 新羅の表を踏みつけたことにあるのではない、

 ということだけはいえるのではないかと思う。


 「やまと」と読む字

 (4)について

  これは『釈日本紀』の記事である。

 これと同内容のものは『日本紀私記』には見られないが、

 ①-b、②、③、④と関連する。


 唐が我国を呼ぶ名は大倭、和奴、日本のほかにもあるのか、

 という問を設け、耶馬臺、耶摩堆、倭人、倭国、倭面など、

 その名は多いが、音は同じでほかに意味があるわけではない、

 という師の説を答えとしている。

 これは

 大倭、和奴、日本、耶馬臺、耶摩堆、倭人、倭国、倭面すべて

 「やまと」と読み、

 それは既定の事実である、といっていることになる。

 しかし前述したように、耶馬臺は「ヤマタイ」と読む者もあり、

 「臺」は万葉仮名では「ト」とは読まないというのが事実であり、

 現実でもある。

 また和奴は倭奴国のことであり、

 「わがくに」のことではないから「やまと」とは読まない。

 倭面は「委面」のことで「入墨をした顔」を意味し、

 これも「やまと」とは読まない。

 中国が紀元前から日本列島の倭・倭人・倭国を

 見てきたその記録をみれば、このことは自明の理である。

 それにもかかわらずこのように、

 耶馬臺も倭奴も倭面もすべてヤマトのことであるとすることに、

 偶然や成り行きではない、彼らの意図を感ぜざるを得ない。

 中国史書では、

 倭奴、耶馬臺、耶摩堆、倭人、倭国、倭面を

 「やまと」と読んでいるわけではなく、

 『日本書紀』と『日本紀私記』や『釈日本紀』が

 そう読ませているだけであることを忘れてはならない。

 『日本書紀』は、中国史書にいう倭国はヤマトのことで、

 日本は倭国が改名したもの、というテーマのもとで書かれている。

 『日本紀私記』はそれを推進し、

 『釈日本紀』は『日本紀私記』を引用することで、

 それをさらに深めていった。

 しかしながら日本国内の事情は

 中国の唐にはなかなか理解してもらえず、

 『旧唐書』には倭国条とは別に日本国条が設けられたのである。

 それからおよそ百年後、

 『日本書紀』講義の効果は『新唐書』で発揮されることになった。

 倭国は「やまとのくに」であり、

 倭国が日本と改名したことが認められ、

 これ以後、中国史書から倭国の記録は消えたのである。

 『旧唐書』と『新唐書』の倭国と日本国に対する記録の変化は、

 このあたりの事情を如実に示しているといえる。

 『私記』を記録した諸博士たちは、

 もしかしたらすべて承知のうえで、

 倭国は「やまとのくに」で日本は倭国が改名したものとする

 『日本書紀』の意思を受け継ぎ、

 日本という国を東アジアの中で

 確固たる立場の国にしようとしたのかもしれない。

 それには中国史書に古くから記録されている倭国の歴史を、

 是が非でも日本の歴史にする必要があった。

 当時の情勢を考えると、この行為は責められないが、

 今歴史という学問を考えるとき、

 現代の研究者が目に見える資料を前にしながら、

 その矛盾に目を瞑り、

 『日本紀私記』や『釈日本紀』の、

 あまりにも幼稚な言い分までも鵜呑みにしてしまっているとしたら、

 それは果たして許されることなのだろうかと、

 私はふと、そんなことを考えてしまうのである。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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