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『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
セブンネット
歴史学講座『創世』歴史研究家「小嶋 秋彦」:2015/04/09
課題:邪馬臺国の時代を考える
―『日本創世記』を参照した日本の古代―
≪倭人≫
※出典:日本創世紀:小嶋秋彦・15~16頁
第1章 倭人と東夷の原像
―和人〔倭人〕はシナ大陸を最初に開化させた―
(1)倭人
「倭人」という呼称は日本人には『三国志魏志倭人伝』との
通称によってよく知られている。
この三国志とはシナの史書の一つで、紀元後2-3世紀に
後漢の終末からの覇権争いで登場してきた勢力で、
3世紀中シナ大陸を3分割して国をなした
魏(220-265)、呉(222-280)、蜀(221-263)の
三国の歴史にからむ記録を集めた史書で、
「三国」とは魏呉蜀国をいう。
実際はそれぞれ魏書・呉書・蜀書と別々の記述となっている。
「倭人伝」はそのうちの魏書第三十にあるもので
「東夷伝」の一節である。
東夷伝のうちには「韓伝」、「弁辰伝」、「粛慎伝」などあり、
「倭人在帯方東南大海中」との書き出しで始められている
「倭」に関する記述で、
当該部分を「倭人」といいならわしているのである。
そこには現在の日本列島の一地方である「南方」についての
情報と魏国との交通が記述されている。
この「倭人」という記述は中国の史料のうちでは初めてではない。
同東夷伝で引用書としている「魏略」に「倭人」との表記があり、
三国志記述より古い時期とすることができる。
さらに「漢書」地理志「燕地」のうちに
「楽浪海中有倭人」との記述がある。
この漢書地理志は紀元1世紀の成立で、三国志より古い時代で、
日本の古代の呼称を「倭」、そこの人々を「倭人」と呼んだ
最も古いものとされている。
「倭」の呼称も魏書「韓伝」に
「韓在帯方之南東西以海為限南與倭接」とある。
また大分時代は下がるが、
唐(紀元618-907)の歴史書である「唐書」には「日本古倭奴也」とあり、
「倭」とは「日本」を指すことが通念であったことを示している。
つまり、「倭人」とは「日本の人」の語義となる。
ところでこの「倭」の表記は「日本」列島対象だけの呼称ではない。
紀元前2世紀より古くからのシナの地理書「山海経」に
その用語が表れており、その対象地域が大陸内を指している。
その第十三巻「海内北経」に
「蓋国は巨大なる燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属す」とある。
紀元前の7世紀後半から
「燕」は現在の北京市辺りから河北省天津市辺りまでを
占めた勢力であった。
「倭」はその南にして、さらに蓋国の南にあったということになる。
「蓋国」の比定は現在不確かとなっているが、
「倭」は山東半島から揚子江の河口付近江蘇省の黄海岸に
あったと考えられる。
特に准河河岸地帯に後に取上げる「准夷」がおり、
「倭[wo]」と「准[huai]」は同音に近く
そこも当該地に含めることができる。
因みに「倭」はまた[ヰ]とも発音され、
次に解説する「夷」とも同音である。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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