2015年5月22日金曜日

「倭人」

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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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 歴史学講座『創世』歴史研究家「小嶋 秋彦」:2015/04/09

 課題:邪馬臺国の時代を考える
    ―『日本創世記』を参照した日本の古代―

 ≪倭人≫

 ※出典:日本創世紀:小嶋秋彦・15~16頁

 第1章 倭人と東夷の原像

     ―和人〔倭人〕はシナ大陸を最初に開化させた―

  (1)倭人

   「倭人」という呼称は日本人には『三国志魏志倭人伝』との

  通称によってよく知られている。

  この三国志とはシナの史書の一つで、紀元後2-3世紀に

  後漢の終末からの覇権争いで登場してきた勢力で、

  3世紀中シナ大陸を3分割して国をなした

  魏(220-265)、呉(222-280)、蜀(221-263)の

  三国の歴史にからむ記録を集めた史書で、

  「三国」とは魏呉蜀国をいう。

  実際はそれぞれ魏書・呉書・蜀書と別々の記述となっている。

  「倭人伝」はそのうちの魏書第三十にあるもので

  「東夷伝」の一節である。

  東夷伝のうちには「韓伝」、「弁辰伝」、「粛慎伝」などあり、

  「倭人在帯方東南大海中」との書き出しで始められている

  「倭」に関する記述で、

  当該部分を「倭人」といいならわしているのである。

  そこには現在の日本列島の一地方である「南方」についての

  情報と魏国との交通が記述されている。

   この「倭人」という記述は中国の史料のうちでは初めてではない。

  同東夷伝で引用書としている「魏略」に「倭人」との表記があり、

  三国志記述より古い時期とすることができる。

  さらに「漢書」地理志「燕地」のうちに

  「楽浪海中有倭人」との記述がある。

  この漢書地理志は紀元1世紀の成立で、三国志より古い時代で、

  日本の古代の呼称を「倭」、そこの人々を「倭人」と呼んだ

  最も古いものとされている。

  「倭」の呼称も魏書「韓伝」に

  「韓在帯方之南東西以海為限南與倭接」とある。

  また大分時代は下がるが、

  唐(紀元618-907)の歴史書である「唐書」には「日本古倭奴也」とあり、

  「倭」とは「日本」を指すことが通念であったことを示している。

  つまり、「倭人」とは「日本の人」の語義となる。

   ところでこの「倭」の表記は「日本」列島対象だけの呼称ではない。

  紀元前2世紀より古くからのシナの地理書「山海経」に

  その用語が表れており、その対象地域が大陸内を指している。

  その第十三巻「海内北経」に

  「蓋国は巨大なる燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属す」とある。

  紀元前の7世紀後半から

  「燕」は現在の北京市辺りから河北省天津市辺りまでを

  占めた勢力であった。

  「倭」はその南にして、さらに蓋国の南にあったということになる。

  「蓋国」の比定は現在不確かとなっているが、

  「倭」は山東半島から揚子江の河口付近江蘇省の黄海岸に

  あったと考えられる。

  特に准河河岸地帯に後に取上げる「准夷」がおり、

  「倭[wo]」と「准[huai]」は同音に近く

  そこも当該地に含めることができる。

  因みに「倭」はまた[ヰ]とも発音され、

  次に解説する「夷」とも同音である。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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