2014年10月28日火曜日

『櫻田』


 浦和レッズレディース
 Matのジオログ
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 《課題》江戸の古代を解明する
     ―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―

 「山王神社・天津神社〔恵比寿神社〕及び目黒の大鳥神社の祭神」

 ≪日吉山王神社≫

 ※出典:江戸名所図会

 江戸名所図会 巻之三 天璣之部

 『櫻田』古の郷名なり。

 和名類聚抄にも荏原郡櫻田〔割註〕佐久良太。」とありて、

 其の称尤も久し。

 〔割註〕今は豊島郡に属せり。

 小田原北条家の所領役帳に、

 太田源七郎及び牛込宮内少輔勝行、興津加賀守、會田中務丞等。

 其余の所領にも往々櫻田の地名を注し加ふ。

 櫻田久保町、同兼房町、備前町の類ひ。

 また今の麻布六本木の南に櫻田町と唱へてあるもの、

 同所百姓町等いづれも御入國の後、

 かしこに地を替給ひしなりとぞ。」

 武蔵國風土記曰 荏原郡櫻田郡郷。

 公穀四百六十三束三字田。

 號櫻田者。以其郷之岡及野櫻樹多也。云々。

 〔割註〕太平記云、

 元弘三年五月武蔵野合戦の條下に、九日軍の評定ありて、

 翌日上総下総の勢うを討て後、敵の後攻とて、

 金澤武蔵守将五万余騎を差副へて、下河邊へ下る、

 一方へは櫻田治部太輔貞國を大将にて、

 長崎二郎高重、同孫四郎佐衛門、加治二郎佐衛門入道に、

 武蔵上野両国の勢六万余騎を相添て、

 上路より入間河へ向らるゝとあり。

 新著聞集に、櫻田は虎の御門より愛宕の辺迄田地にて、

 畔には櫻の樹幾千本も植ありし、

 田の中の流れを櫻川といひし、

 今は源介橋其印とてのこりたるとかや云々。

 又求涼亭云く、櫻田の櫻は御入国の後、

 今の吹上の御庭中へうつされしとぞ云々。

 …以下略…


 『櫻か井』

 井伊候藩邸表門の前、石垣のもとにあり。

 亘り九尺ばかり、石にて畳みし大井なり。

 釣瓶の車三つかけならべたり。

 或云、事蹟合考に、井伊家中屋敷四ッ谷喰違の屋敷ともあり。

 若葉井は同所御堀端番屋の裏にあり、

 柳の木をうゑし故に柳の水ともいへり。

 いづれも清冷たる甘泉なり。

 江戸名所図会 巻之三 天璣之部 桜の井

《参考》

 ARPACHIYAH 1976



 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等




 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

0 件のコメント:

コメントを投稿