2014年9月2日火曜日

伊都国:宋槧本『太平御覧』所引『魏志』倭人章

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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 課題:絹を求めて渡来したイスラエル商人とその後裔
    ―魏書倭人章の伊都国と紀伊の伊都郡―

 出典:宋槧本『太平御覧』所引『魏志』倭人章

第一粂

 魏志曰倭国在帯方東南大海中依山島為旧国百余小國漢時朝見者今令使訳所通其三十国従帯方至倭循海岸水行歴韓国従乍南乍東到其北岸狗邪韓国七千餘里始度一海千里至對馬國戸千余里大官曰卑狗副曰卑奴母離所居絶島方四百余里地多山林無良田食海物自活乗船南北市糴又渡一海一千里名曰 瀚海一大国置官与対馬同地方三百里多竹木叢林有三千軒許家亦有田地耕田不足食方行市糴又渡海千余里至末盧国戸四千浜山海居人善捕魚水無深浅皆能洗沉沈没取之東南陸行五百里到伊都国官曰爾支副曰泄謀觚柄渠觚有千余戸世有王皆統属女王帯方使往来常止住又東南至奴国百里置官曰先馬觚副曰卑奴母離有二万余戸又東行百里至不弥国戸千余置官曰多模副曰卑奴母離又南水行二十日至於投馬国戸五万置官曰弥弥副曰弥弥那利又南水行十日陸行一月至耶馬台国戸七万女王之所都其置官曰伊支馬次曰弥馬叔次曰弥馬獲支次曰奴佳鞮其属小国有二十一皆統之女王之南又有狗奴国男子為王其官曰狗石智卑狗者不属女王也自帯方至女国万二千余里其俗 男子無大小皆鯨面文身聞其旧語自謂太伯之後又云自上古以来其使詣中国草伝辞説事或蹲或跪両手據地謂之恭敬其呼応声曰噫噫如然諾矣

第二粂

 又曰倭国本以男子為王漢霊帝光和中倭国乱相攻伐無定乃立一女子為王名卑弥呼事鬼道能惑衆自謂年已長大無夫婿有男弟佐治国以碑千人自侍唯有男子一人給飲食伝辞出入其居處宮室楼観城柵守衛厳峻景初三年公孫淵死倭女王遣大夫難升米等言帯方郡求詣天子朝見太守劉夏送詣京師難升米致所献男生口四人女生口六仁班布二疋詔書賜以雑錦釆七種五尺刀ニロ銅鏡百枚真珠鈆丹之属付使還又封下倭王印綬女王死大作冢殉葬者百余人更立男王国中不伏更相殺数千人於数千人於是復更立卑弥呼宗女台挙年十三為王国中遂定其倭国之東渡海千里復有国皆倭種也又有朱中儒国在其南人長三四尺去俊倭四千余里又有裸国墨歯国復在其南船行可一年至


 南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戸自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳次有斯馬國次有已百支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有鬼國次有爲吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國次有奴國此女王境界所盡其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王自郡至女王國萬二千餘里。

 倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑舊百國漢時有朝見者今使譯所通三十國從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里始度一海千餘里至對馬國其大官曰卑狗副曰卑奴母離所居絶島方可四百餘里土地山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戸無良田食海物自活乘船南北市糴又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國官亦曰卑狗副曰卑奴母離方可三百里多竹木叢林有三千許家差有田地耕田猶不足食亦南北市糴又渡一海千餘里至末盧國有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沈沒取之東南陸行五百里到伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戸丗有王皆統屬女王國郡使往來常所駐東南至奴國百里官曰兕馬觚副曰卑奴母離有二萬餘戸東行至不彌國百里官曰多模副曰卑奴母離有千餘家南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戸自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳次有斯馬國次有已百支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有鬼國次有爲吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國次有奴國此女王境界所盡其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王自郡至女王國萬二千餘里男子無大小皆黥面文身自古以來其使詣中國皆自稱大夫夏后少康之子封於會稽斷髮文身以避蛟龍之害今倭水人好沈沒捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽後稍以爲飾諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差計其道里當在會稽東冶之東其風俗不淫男子皆露紒以木緜招頭其衣横幅但結束相連略無縫婦人被髮屈紒作衣如單被穿其中央貫頭衣之

 種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵縑緜其地無牛馬虎豹羊鵲兵用矛楯木弓木弓短下長上竹箭或鐵鏃或骨鏃所有無與儋耳朱崖同倭地温暖冬夏食生菜皆徒跣有屋室父母兄弟臥息異處以朱丹塗其身體如中國用粉也食飮用邊豆手食其死有棺無槨封土作冢始死停喪十餘日當時不食肉喪主哭泣他人就歌舞飮酒已葬舉家詣水中澡浴以如練沐其行來渡海詣中國恆使一人不梳頭去蟣蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人名之爲持衰若行者吉善共顧其生口財物若有疾病遭暴害便欲殺之謂其持衰不謹出眞珠青玉其山有丹其木有枏杼豫樟楙櫪投橿烏號楓香其竹篠簳桃支有薑橘椒襄荷不知以爲滋味有獮猴黒雉其俗舉事行來有所云爲輒灼骨而卜以占吉凶先告所卜其辭如令龜法視火坼占兆其會同坐起父子男女無別人性嗜酒
【魏略曰:其俗不知正歳四節、但計春耕秋收爲年紀】
見大人所敬但搏手以當跪拜其人壽考或百年或八九十年其俗國大人皆四五婦下戸或二三婦婦人不淫不to[偏女旁戸]忌不盜竊少諍訟其犯法輕者沒其妻子重者滅其門戸及宗族尊卑各有差序足相臣服收租賦有邸閣國國有市交易有無使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯下戸與大人相逢道路逡巡入草傳辭説事或蹲或跪兩手據地爲之恭敬對應聲曰噫比如然諾其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐歴年乃共立一女子爲王名曰卑彌呼事鬼道能惑衆年已長大無夫壻有男弟佐治國自爲王以來少有見者以婢千人自侍唯有男子一人給飮食傳辭出入居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衞女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至參問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里。

 景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝獻太守劉夏遣吏將送詣京都其年十二月詔書報倭女王曰制詔親魏倭王卑彌呼帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米次使都市牛利奉汝所獻男生口四人女生口六人班布二匹二丈以到汝所在踰遠乃遣使貢獻是汝之忠孝我甚哀汝今以汝爲親魏倭王假金印紫綬裝封付帶方太守假授汝其綏撫種人勉爲孝順汝來使難升米牛利渉遠道路勤勞今以難升米爲率善中郎將牛利爲率善校尉假銀印青綬引見勞賜遣還今以絳地交龍錦五匹
【臣松之以爲地應爲綈漢文帝著皂衣謂之戈綈是也此字不體非魏朝之失、則傳冩者誤也】
絳地縐粟罽十張蒨絳五十匹紺青五十匹答汝所獻貢直又特賜汝紺地句文錦三匹細班華罽五張白絹五十匹金八兩五尺刀二口銅鏡百枚眞珠鉛丹各五十斤皆裝封付難升米牛利還到録受悉可以示汝國中人使知國家哀汝故鄭重賜汝好物也正始元年太守弓遵遣建忠校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王并齎詔賜金帛錦罽刀鏡采物倭王因使上表答謝恩詔其四年倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人上獻生口倭錦絳青縑緜衣丹木拊短弓矢掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬其六年詔賜倭難升米黄幢付郡假授其八年太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢拜假難升米爲檄告喩之卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王國中遂定政等以檄告喩壹與壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還因詣臺獻上男女生口三十人貢白珠五千孔青大句珠二枚異文雜錦二十匹。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ 
     

阿曇・安曇(126)倭人[和人]はシナ大陸を最初に開化させた

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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 阿曇・安曇(126)倭人[和人]はシナ大陸を最初に開化させた

 倭人[和人]はシナ大陸を最初に開化させた
 倭人[和人]はシナ大陸を最初に開化させた
 黄帝・嫘祖と夏王朝及び三星堆遺跡  
 黄帝・嫘祖と夏王朝及び三星堆遺跡
 書経「禹貢」の「和夷」
 書経「禹貢」の「和夷」
 中国四川・雲南の哈尼族・〔阿尼族〕 
 中国四川・雲南の哈尼族・〔阿尼族〕 
 中国四川・雲南の彝族の由来〔羌族氐と寨〕
 中国四川・雲南の彝族の由来〔羌族氐と寨〕
 「史記」の黄帝と嫘祖及び五帝  
 「史記」の黄帝と嫘祖及び五帝
 「史記」五帝本紀の「和」「羲」
 「史記」五帝本紀の「和」「羲」
 「史記」夏本紀の「禹」
 「史記」夏本紀の「禹」
 四川省広漢の三星堆遺跡と「史記」の黄帝〔軒轅〕
 四川省広漢の三星堆遺跡と「史記」の黄帝〔軒轅〕
 哈尼族の言葉〔和語〕と彝族の言葉・文字〔寨文〕
 哈尼族の言葉〔和語〕と彝族の言葉・文字〔寨文〕
 「和」「哈」「倭」の発声語幹とその語義
 甲骨文字「姫」と「女+(臣+丨)」
 甲骨文字「姫」と「女+(臣+丨)」


《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

阿曇・安曇(125)哈尼族・阿尼族(2)

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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 阿曇・安曇(125)哈尼族・阿尼族(2)

 《哈尼族の歴史》

 哈尼族の歴史は古く、

 他の彝語支の民族同様、中国古代人を祖先としている。

 史籍の記載によると、氐(てい)・羌(きょう)族は

 もともとチべット高原で遊牧をおこなっていたが、

 のちにだんだんと南へ移住して

 四川西南部や雲南北部などの広大な地域に散らばり、

 前三世紀頃になって

 哈尼族の祖先たちが二つのルートに分かれて南へ向かった。

 一つは昔の「和夷(ホイ)」であり、

 四川西南部から昆明一帯を経て南へ向かい、

 雲南東南部の六詔山地区にいたった。

 もう一つは雲南西北部から南へ向かい、

 大理湖岸の盆地を経て哀牢山地区と無量山地区に分かれて南下した。

 唐・宋代、雲南東南部の六詔山地区に、

 「和蛮(ホマン)」の集落があらわれ、

 まず「南詔(なんしよう)」、ついで「大理」政権のもとに統轄された。

 一三世紀中葉、

 元王朝が「大理」政権を滅ぼし、

 諸「部」を統一して雲南行省を設置した。

 元の憲宗六年(一二五六年)、阿棘 (アボ)万戸府をたて、

 「県二、千戸一、州三を領し」、

 現在の紅河州の大部分と文山州の一部を統轄した。

 その後、今度は羅甸(らでん)に元江万戸府、思陀に和泥路を設置して

 和泥(ホニ)の首領を土官(巻末注参照)とし、

 それぞれ雲南行省に直属させた。

 明のはじめ、雲南行中書省を雲南布政使司と改め、

 少数民族の集居地区に宣慰司、宣撫司、按撫司、御夷州を設置した。

 哀牢山和泥地区には相ついで各部長官司を設立し、
 
 多くは土官がその任についた。

 清王朝は改土帰流

 (少数民族の土官を廃し、中央政府派遣の流官に改めること。

  巻末注参照)を実行し、

 哀牢山和泥地区では因遠羅必旬長官司を廃し元江州の管轄に属させた。

 そして馬龍他郎甸長官司、

 紐丌(ちゆうごつ)長官司を他郎庁(墨江)と改め、

 普洱(プアル)府に隷属させた。

 (略……)


 《暦と行事》

 哈尼族の祝祭日は

 伝統的な「十月年(シイユエニエン)」(十月正月)、

 「六月年(リユウユエニエン)」(六月正月)のほか、

 漢族の習慣にならって春節、端午節、中秋節も祝う。

 紅河南岸および内地の吟尼族は一○月を年の始めとしているため、

 「十月年」を「大年(ダアニエン)」(正月)と称している。

 その期間は約半月だが、具体的な期日は各村落で異なり、前後にずれる。

 条件のある人や富裕な家は、みな豚を殺し、

 「杷杷(パアパア)」(モチ米などをこねて焼いた餅)をつき、

 黄色のおこわを蒸して天地や祖先に供える。

 人々は正月には盛装して親戚や友人を訪問し、求婚、婚約をおこなう。

 前の年に嫁に行った娘たちが春節の期間もどってきて、

 村の外の山林に集まり、

 互いに自分たちの新婚生活を打ち明けあうのだが、

 それを他の男女が盗み聞きすることは厳禁で、

 もし見つかったらみんなから罰を受ける。

 西双版納一帯の新年は時期がやや遅く、「夏托帕(ガトパ)」といわれ、

 これは年を換えるという意味である。

 「六月年」も楽しい祝日で、紅河地区では「苦紮紮(クチャチャ)」、

 西双版納では「耶苦紮(イエクチャ)」という。

 時期は一般に農暦の六月二四日前後で、期間は四日から六日である。

 期間中は村単位で牛を殺して

 「秋房(チユウフアン)」(供犠をおこなう場所)をまつり、

 牛肉を各家々に分けて祖先をまつる。

 青年たちは集いあって一緒にブランコ、レスリングや狩りを楽しみ、

 山歌をうたって歌垣をおこなうなど、内容が豊富で多彩である。

 西双版納地区では「六月年」の間、既婚未婚にかかわらず、

 男女がみな自由に社交活動に参加でき、互いに干渉しない。

 その他の地区では、

 この特殊な古い習俗は酒歌のなかに残されるのみである。

 墨江などでは農暦の六月二四日に

 火把節(フオパーチェ)(たいまつ祭り)を祝い、

 日暮れかた各村々でたいまつを燃やすのだが、

 火はめらめらと燃え上がり、空を赤く染める。

 たいまつは高さ数丈で、

 細く割いた松や竹を干してくくったものを用いるが、

 たいまつの太さにはいろいろあり、

 最大のものは直径五、六○センチにもなる。

 たいまつによっては上に各種の果物をくくり、火が燃えて糸が切れ、

 果物が落ちると、みんなで奪いあって遊ぶ。

 老若男女がたいまつの周囲をかこみ、太鼓や銅鑼をたたいて伴奏し、

 夜を徹して思う存分朝まで歌い、踊りつづける。

 (略……)


 「写真」“愛尼"の人々は、人が死ぬと、

     米一椀、卵一個、茶の葉を持って死者に別れを告げに来る。

     死者の家では、小さな豚を殺してその肝臓で占いをし、

     大きな豚を殺してその肉を各戸に配り、

     村人への盛謝をあらわす。

     村の男性は山にのぼり木を切って、死者のために棺をつくる。

     棺を穴におさめたあと、棺の蓋を開け家族は最後の別れを告げる

 《哈尼族の歴史
 「氐(てい)・羌(きょう)族
 「哈尼族の祝祭日」 
 「山歌をうたって歌垣
 「火把節
  
 「愛尼族

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
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 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
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2014年9月1日月曜日

阿曇・安曇(124)哈尼族・阿尼族(1)

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 《参考:年表・資料》

 阿曇・安曇(124)哈尼族・阿尼族(1)

 哈尼[ハニ] 族

 哈尼族の祖先は、南下した古代羌族だといわれる。

 哀牢山などの山地に住み、見事な階段状の棚田を築きあげ、

 農暦一○月または六月に迎える正月にはモチをつく。

 西双版納の哈尼族は、有名な普洱茶を栽培している。

 《哈尼族の生活地域》

 哈尼族は人口一○五万八八三六(一九八二年の統計)、

 雲南省中南部に居住し、

 哀牢山と無量山の間の広々とした山地に集中的に分布している。

 哀牢山に

  ある元江、墨江、紅河、緑春、金平、元陽、江城などの県は

 哈尼族が特に集中している地区で、

 その数約七七万人、哈尼族全体の七六パーセントを占める。

 無量山区の哈尼族は一○数万人で、

 そのうち瀾滄に四万人、

 西双版納(シツソンバンナ)に一○万一○○○余人が分布し、

 その他の県にはあまり分布していない。

 哈尼族は多くの自称をもち、

 「哈尼(ハニ)」「卡多(カトウ)」「豪尼(ホニ)」「碧約(ピーヨー)」

 「布都(プトオ)」「白宏(ポホ)」などを

 自称する七つの集団の人数が比較的多い。

 中国の史籍にみられる歴史的名称には、

 「和夷(ホイ)」「和蛮(ホマン)」「和泥(ホニ)」

 「窩泥(ウオニ)」「阿尼(アニ)」「哈尼(ハニ)」等々がある。

 新中国成立後は哈尼族に呼び名が統一された。

 哈尼族の居住する山地は気候が温和で降水量も多く、

 多種類の農作物の栽培に適している。

 農作物は稲を中心とし、

 トウモロコシ、豆類、ソバ、小麦、粟などの雑穀の栽培も

 ひろくおこなわれている。

 商品作物には茶、落花生、サトウキビ、棉花、藍、紫梗などがある。

 そのうち墨江の紫腰(シエラツク)(寄生虫が分泌する一種の樹脂)と

 西双版納南糯(ナンノウ)山に産する茶は、

 国内外から高い評判を博している。

 「哈尼族・阿尼族
 「哈尼族の祖先は、南下した古代羌族だといわれる
 「哀牢山
 「階段状の棚田
 「西双版納の哈尼族は、有名な普洱茶を栽培している
 「哈尼族の生活地域
 「哀牢山と無量山
 「西双版納南糯(ナンノウ)山



《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

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 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
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阿曇・安曇(123)哈尼族

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 《参考:年表・資料》

 阿曇・安曇(123)哈尼族

 出典:「中国的民族」社若甫・葉傅昇著 科学出版社 1994

    29頁

 『哈尼族』

 《一、族名》

 ”哈尼”、”豪泥”、”黒泥”、”和泥”

 等都是哈尼族不同地区人群自称、音叉基本一致。

 ”哈”、”和”是構成飛禽曽名称的詞素、表示這類名称的類別、

 而”尼”是”女性、”人”的意思、合在一起就是”人”的意思。

 《二、人口与分布》

 哈尼族1978年約96万人、1952年ため105.940万人、1990年為125.395万人。

 哈尼族主要分布区為東経99.8°-104°、北緯21.0°-24.0°之間、

 処于漢、彝、白、俸、拉枯等族分布区的中間地帯、

 并有苗、瑤、回、壮、布朗等族分布其間。

 主要分布在云雲南省南部元江和瀾滄江之間。

 亦即哀牢山脈與无元量山脈之間。

 哀牢山区是暗尼族最集中的地区、

 人口約 70 多萬、占本族怠人口的 76 % 、

 佔這些地区的怠人口的一半以上、

 元量山区的暗尼族有 10 多萬人。

 其中瀾滄江有近 4 萬人。

 西雙版納約有 10 萬人。

 其餘各具分佈校少。


 《三、語言與文字》
 
 哈尼語屬漢藏語系藏緬語族彝語支、

 又分吟(尼)、優(尼)、碧(約)卡(多)、豪(尼)白(宏)

 三種方言和若乾土語。

 哈尼族無文字、解放後曽為哈尼族創制了一套拼音文字方案、但尚未普及。

 《四、族源》

 哈尼與彝、拉枯等同源于古代北方的羌人。

 羌原遊牧于青藏高原、後逐漸向南迂移。

 根据哈尼族的伝説和歴史記載分析、

 公元前 3 世紀、

 哈尼族的先民已居住在今四川大渡河南岸及雅砮江以東的沼澤地帯

 及阿尼河(安宁河)流域、或大渡河與金沙江的交汇地区。

 以後分両条路銭再向南迂移、一条四川西部南迂、

 経姫昆明一帯再往南、迂至漠東南的六沼山地区、

 別一条自滇西北往南、経大理湖挨平埋,

 然後又分別南下到哀牢山、無量山区,継而向南、直至西雙版納等地。

 以下略

 " title="「中国的民族」">「中国的民族」社若甫・葉傅昇著 科学出版社 1994

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
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