2015年4月26日日曜日

浅草神社・浅草寺の起源伝承⑧


 『浦和レッズレディース』
 『湘南ベルマーレ』
 『広島・明星院』
 『広島・明星院』
 『明星院・広島県歴史&地名他』

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》
 Matのジオログ
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
 セブンネット

 歴史学講座『創世』歴史研究家「小嶋 秋彦」:2015/01/08

 課題:浅草と墨田〔東京都〕の由来
    ―「山谷」は本来何と称すべきか―

 ≪浅草神社・浅草寺の起源伝承≫
 出典:浅草神社と三社祭:

    編者・森田新太郎、発行者・浅草神社・矢野泰良

 浅草神社と三社祭
 浅草神社


 SANJA MATSURI

   A legend syas that a thousand three years ago found

  a Kannon (Godess of Mercy) statuette caught in a fishing-net

  in the Sumida River on March 17 (May 17 by the solar calendar)

  and afterwards built a shrine and deoted it to Asakusa.

   SANJA MATSUURI, which is one of the Three Great Festivals

  of Edo (now Tokyo), is held on the third Saturday every May 

  by the Ujiko (inhabitants of the neighbourring commnuity)

  at Asakusa Shrine (previously called "SANJA Daigongen Shrine" or 

  "SANJA Myyojin Shrine"), sacred to the tutelary deity 

  of the locality forom of festibval was established

  in the Edo period (1603-1868).

   The parade of the portable shrines is conducted primarity 

  for the mutual amity of the Ujiko and the prosperity 

  of the commnunity but is also joined and enjoyed by the people 

  other than the Ujiko.

《参考》
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 ARPACHIYAH 1976


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

浅草神社・浅草寺の起源伝承⑦


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 出典:浅草神社と三社祭:

    編者・森田新太郎、発行者・浅草神社・矢野泰良

 浅草神社と三社祭
 浅草神社


 6.昭和の修営

  戦災による消失を辛くも逃れた浅草神社では

 昭和36年9月~昭和38年6月まで22ヶ月に亘り、

 工事総額4,283万円にて社殿修理に着手したが、

 これは大正6年の修理以来実に44年ぶりのことで、

 修理は文化財保護委員会の指導のもと315年前の

 創建当初の再現するのを目標に、

 多額の国庫補助金を受けて行われた。

 7.平成の修営

  昭和の修営から33年を経て建物全体の彩色と漆が傷み

 補修のため国庫補助金を含む工事費総額4億5千万円で

 平成6年から3年をかけ修理をおこなった。


《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)  
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
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2015年4月23日木曜日

浅草神社・浅草寺の起源伝承⑥


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 出典:浅草神社と三社祭:

    編者・森田新太郎、発行者・浅草神社・矢野泰良

 浅草神社と三社祭
 浅草神社

 5.ビンザサラ

  編木(ビンザサラ)、又は拍板(ビンササラ)とも書き、

  田楽の楽器の一種である。

  板を百八枚並べて上の端を紐で結び、

  両端に持つ所を作り、アコーディオンを奏でる様に

  端を握って伸縮するとそれにつれて板と板がふれ合い、

  サラッサラッと云う音を出す。

  木を編む所から編木と云い、

  板を打ち合わす所から拍板と云う。

  古来田楽の「烏間口の舞」(中門口の舞)には

  必ず用いられた楽器で、土地により長短の別があるが、

  中国の北斎時代頃から行われたものが、

  日本へ日本へ輸入されたのではないかと云われている。

  浅草神社の拍板神事は

  東京に残る数少ない神事舞踊の一つとして昔から有名で、

  中世の田楽踊り(拍板踊り)の名残を留め、

  現在では東京都の無形文化財に指定されている。

 それから「烏間口の舞」と云うのは田楽の舞の一つであるが、

 田楽と云うのは平安朝の頃から行われた舞踏で、

 元来は農村の田植頃から発生した。

 この「田楽」という言葉は、

 『栄華物語』『今昔物語』の二書に見えるのが最初で、

 古くはこの胸につける大太鼓の事を指し、

 転じてそれを打って舞うことも田楽と云ったらしい。

 後には田楽笛を吹く者、ササラヲ打ち鳴らす者、

 或は獅子舞を舞う者までが附き物となったらしい。

 「烏間口の舞」と云うのはこれらの田楽の中で、

 特に神社仏閣及び貴族の邸宅の繁栄を祈念する意味で

 行われた舞のことを云う。

 娯楽としての田楽は、

 北条時代、執権高時が殊のほか愛好したので、

 京都市中貴賎老若を問わず熱狂し、

 専門の田楽法師による新座、本座の二団体まで出来、

 互いに対抗して芸を競ったらしい。

 足利尊氏の時にはあまり見物人が多いので桟敷がつぶれ、

 死傷者迄出したと云われる。(『太平記』)

 この様な盛況さも室町末期以後は新興の「能楽」に食われ、

 僅かに神社仏閣にの儀式としてのみ名残を止め、

 次第に衰退して今日に至った。

 従って我々は浅草神社の拍板神事を眼のあたりに見る事により、

 遠くは中世の田楽の名残を偲ぶことが出来る訳であり、

 これが無形文化財に指定された所以でもある。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
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2015年4月8日水曜日

浅草神社・浅草寺の起源伝承⑤


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 出典:浅草神社と三社祭:

    編者・森田新太郎、発行者・浅草神社・矢野泰良

 浅草神社と三社祭
 浅草神社

 4.船祭

  昔の隅田川は水清く澄み、

  浅草海苔を採る業者や漁師が多く生活していた。

  その後川が汚濁したり、

  又殺生禁断の地域になったりした事から、

  これらの人々が多く大森辺りその他み移住して行ったが、

  その昔の神恩を忘れず、3月18日の浅草神社の本祭

  (丑、卯、巳、未、酉、亥の隔年)には

  遠く安房、上総の浦々からも

  漕来たって大森の浦に船を繋ぎ、祭礼の前日には

  大森、佃の船と共に浅草川(隅田川)へ漕寄せ、祭りに

  参加したと云われる。

   即ち本祭(隔年)の当日、神社を出た神輿は

  浅草の大通りを浅草見附(今の浅草橋)まで舁がれ、

  浅草御門の外、神田川で神輿を船に遷し、

  浅草川(隅田川)を漕ぎ上がって駒形で陸にあがり、

  神社に舁ぎ帰った。

   この時には一船に一基ずつ神輿を乗せ、

  また故実に従い、専当・斎頭・常音の三坊も

  夫々一基に一人ずつ付き随い、浅草寺の別当顕松院も

  御船に供奉したと云われる。

  これらの船の奉仕をしたのが前述の漁師達で、

  皆船印を立て、

  浄衣を着て威勢よく漕ぎ上って来たものと思われ、

  府内随一の大祭として江戸中の人気を集めたが、

  既に断絶して年久しく約百年程を経過する。

 ◎三社権現船祭再興者功績の碑について

  前述の船祭は宝暦11年(1761年、234年前)に

  故あって断絶したので、それを悲しんだ浅草寺達頭の

  飯山・斎藤の両氏が之を再興しようとしたが、

  生前は果たさず、没後に至って、

  その子の飯山褒廣、斎藤秀正が父の志を継ぎ、

  大森の漁人に語らい出船の奉仕方を約さしめた。

  この船祭再興の模様を語り、二者の功績をたたえ、

  後世に伝えようとしたのがこの石碑で、

  法眼伊蒿が文を作り、

  明和8年(1771年)三社境内に建てたが、

  明治以後は伝法院に移り、

  今池の北側築山の下に現存している。

 ◎昭和33年秋浅草観音本堂落慶の開帳にあたり、

  11月2日の日をえらび、この船祭を復活して執行し、

  以って観音像感得の故事因縁を更に徹底して

  世人に認識せしめた。

 ◎観音堂戒殺碑

  今駒形公園にある。

  その昔浅草観音感得の故事に因み、

  隅田川に於ける殺生漁獲を禁じた石碑で、

  元禄6年(1693)浅草寺権僧正宣存が撰文して

  建立したものである。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)  
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
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2015年4月7日火曜日

浅草神社・浅草寺の起源伝承④


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 『湘南ベルマーレ』
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 『明星院・広島県歴史&地名他』

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 《参考:年表・資料》

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    ―「山谷」は本来何と称すべきか―

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 出典:浅草神社と三社祭:

    編者・森田新太郎、発行者・浅草神社・矢野泰良

 浅草神社と三社祭
 浅草神社

 3.三社祭

  ◎観音祭

   神社の由来をみても分かる様に、

   当社は浅草寺と切っても切れない関係があり、

   昔は祭礼の時神輿は観音堂外陣にに備へられ、

   又ビンザサラも堂前の舞台で行われた如く、

   むしろ観音堂中心の行事の観があった。

   従って「観音祭」と呼ばれていたが、

   明治初年の神仏分離以来、

   その関係がややうすくなってきた感があるのは

   再興の余地がある。

  ◎江戸の祭

   三社祭は永田町の日枝神社、神田の神田神社の祭礼と共に

   江戸の三大祭として昔から有名で、

   常盤津の三世相、清元の三社祭にも

   「弥生の花、浅草祭」として謳われていた。

   三社祭は、一番下町気分の濃厚な浅草を舞台として

   繰り拡げられた関係上、

   現存する江戸の祭の中でも最も街の気分と

   祭の情緒がとけこみ、祭の雰囲気の盛上る点では

   江戸の華として全国に宣伝して恥じないものである。

  ◎現在の祭礼

   現在の祭礼はビンザサラ神事、

   町内神輿連合渡御、宮出(本社神輿三体各町渡御)が

   5月第3金・土・日曜日に行われる。

  ◎昔の祭

   昔の祭は3月17、18日の両日、

   及び6月15日に行われ、

   現在の様に町内若衆によって本社神輿をかつぎ廻ると

   云う事はなく、寧ろ船祭の行事が中心であり、

   又江戸時代には各町から出された山車が夫々の趣向で、

   その絢爛さ、豪華さを競った様である。

   例えば明和8年の『日並記』には次の様な

   山車が記載されている。

    壱番 武蔵野の山車    諏訪町

    弐番 同断        西仲町

    参番 牡丹之花山車    材木町

    四番 桜花之山車     花川戸町

    五番 網引船人形之山車  山之宿町

    六番 かんこ(諌鼓)の山車 田町壱弐丁目

   又別の書には、片町、天王町、黒船町などの

   山車の参加も見えているから、

   往時は現在の氏子中だけでなく、

   浅草橋や蔵前筋の各町まで三社祭に参加した様である。

    右のねり物、獅子屋台などが、早朝浅草見附などの
  
   御門外に集合し、行列の順を整えて御蔵前から諏訪町、

   並木町と進んで、仲見世から境内に入り、

   本堂に安置の神輿の前に参詣あって、

   夫々の芸能を演じ、随身門(二天門)を出て、

   自分の町々へ帰るのが恒例であった。

   この行列が午前10時半ごろ渡り終わると、

   「お堂下げ」といって神輿三体を本堂からおろし、

   一の宮を先頭にかつぎ、仲見世、並木町を経て

   浅草御門(浅草橋際)の乗船場まで進む。

   この時の舁手は花川戸と山の宿両町の若者が

   担当する習慣であった。

   ここで神輿を船にのせ、浅草川を漕ぎのぼって、

   駒形岸或は花川戸岸から上陸した様である。

    三社祭がいつ頃から始められたかは不明であるが、

   昔は、

   丑(ウシ)、卯(ウ)、巳(ミ)、未(ヒツジ)、酉(トリ)、亥(イ)の

   一年おきが本祭で、正和元年(1312年花園朝)3月の

   本祭から

   三社の神話にもとずき船祭の行事が始められたと

   云われている。

    この船祭は大森の漁民が来て奉仕したが、

   ある種の理由で宝暦11年(1761年9代将軍家重)に中絶し、

   その後10年を経て明和8年(1771年10代将軍家治)に

   飯山褒廣、斎藤秀正らがこの祭事を復興し、

   江戸末期まで続いたが明治以後は廃絶している。

    安政の末(1890年)には、宮本三町(山の宿、花川戸、

   材木町)の乱暴によって、

   神輿を門外へ出すことは勿論、境内に於いて

   舁ぐことも禁止されるに至ったが、

   明治5年から5月17日、18日両日に祭礼を行い、

   氏子各町に神輿の渡御を行うようになった。

    毎年3月18日の祭礼には、内陣にある幣を神輿に移し

   別に新しい幣を捧げた。
   
   専頭坊は中知の幣を、斎頭坊は浜成の幣を、

   常頭坊は竹成の幣を、夫々皆左の袖に抱いて、

   移したものでこの時には灯を消し神職が太鼓を打ち鳴らし、

   なかなか荘重な儀式であった。

   祭礼が終わると古い幣を神輿から出して

   神前に向って右の方の柱にさし、

   年々歳々古い幣がいくらたまっても

   取捨てることはしなかった。

   現在では土師(現宮司)にみが司る。

 常盤津「三世相」

  安政4年(1857年)の初演。

  作者は三世桜田治助、作曲四世哥沢古式部である。 

  曲は傑作として残ったが振りは残らないらしい。

 清元「三社祭」―「弥生の浅草祭」 

  天保3年(1832年)の初演。

  四代目三津五郎と四代目歌右衛門が神功皇后、武内大臣を
 
  山車人形の心で踊り、引抜いて漁師の浜成、竹成にかわり、

  面を冠って善玉、悪玉となり、

  最後に石橋のクルヒで常盤津、清元、長唄になるのであるが
 
  今は清元だけで漁師と善悪のみ踊る。
  作者二世瀬川如皐、作曲初代清元斎兵衛、

  振付二世「藤間勘十郎という。

  曲も振りも自由奔放の特異性に富むが、

  「撞いてくりやんな八幡鐘を」とか、

  「そなた思へば七里ヶ浜を」の有名な所は、

  実は富本の「薄雪」「大和文字恋の歌(ウタヨミ)」から

  唄も節もまねたもので、

  後段の善玉悪玉は当時流行の心学の影響を受け、

  一種のグロテスクな仮面舞踏である。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

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 Tell Arpachiyah (Iraq)
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 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
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