2014年1月22日水曜日

邪馬台国なら巨大な有機体遺物が残る


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録32:5頁

 ④ 先に「卑弥呼とは誰、奈良にいた」という立証が必要

   その記事には「卑弥呼」の時代とか、

   「邪馬台国の有力者」といった大見出しをつけ、

   「邪馬台国大和説に有利」とまで書いたものさえある。

   しかし勝山古墳が3世紀以前のものだとしても、

   卑弥呼とは誰で、奈良県のどこにいたと、

   完全に証明されていればそれでいいが、

   一切不明のままで卑弥呼や邪馬台国をもちだして、

   それと勝山古墳を関係づけるのは余りにもムチャである。

 ⑤ 巨大な生活有機体・邪馬台国が実在した証拠が必要
  
   ことにそれが邪馬台国が2世紀に付近に実在した証拠だというのなら、

   邪馬台国とは名だけでなく、

   巨大政権として7万戸もの大人口をかかえた生活有機体だったのだから、

   僅かに板切れ1つではなく、

   その国が勝山古墳の辺りに実在して多数の国民が生活していた遺物、

   ことに先進大国だった中国の知性の高い官僚が

   「宮室樓観城柵巌設」と認めた大建築群の遺物がなければならない。

   私たちがすでに検討を済ませた卑弥呼の首都・巴利国だけみても、

   応神天皇に至るまでの皇居のあとが、

   大隈正八幡宮=鹿児島神宮として今なお現存しており、

   隼人町という地名やパーリ語を語源にした南九州語が大量に残り、

   また彼女の倭迹迹日百襲姫という名乗りや

   『魏書倭人章』の人物名に符合する地名群が、

   あるべき位置にちゃんと残っている。

 《邪馬台国なら巨大な有機体遺物が残る
 「邪馬台国なら巨大な有機体遺物が残る

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

0 件のコメント:

コメントを投稿