2013年11月25日月曜日

爾支の真相と景行天皇史を語る大分(おおいた)の名


 『Yahoo!天気・災害

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録30:10頁

 「爾支」は本来は沖縄語で北を意味する「ニシ=ニチ」であって、

 それ伊都国最高官の称号になつたのは、

 「女王国以北、特に一大率を置き」と書いている「北の太守」の略称であるからである。

 そんな略称が投に立つのは首都が南の地域にある時代でなければならない。

 それは卑弥呼が巴利国=隼人町に都を移したからであって、

 壹與の邪馬壹国時代にも伊都の代官は「爾支」と呼ばれたのである。

 しかし旧卑弥呼政権が日向に移動して、

 情勢が変化すると倭国の状態は変わった。

 載斯(たいし)烏越(オシロ)=景行天皇が巻き返しをはかって、

 九州東半を確保した時代には大分県が「北」と呼ばれていたことがわかる。

 大分の古代発音はオオイタではなくオオキタである。

 「オオ=倭、キタ=北」で倭国の北部という呼び名を今なお記録し、

 用い続けているのである。

 これで、これまでお話ししてきた、

 卑弥呼政権が巴利から日向へ移動した後、

 景行天皇の巻き返しによって、

 倭国が南九州東半部で再び勢力を盛り返した当時が、

 よくご理解載けたと思う。

 これは何が手掛かりと証拠になったのか?。

 それは日本語として今、

 私たちが使っている

 東西南北=「ひがし・にし・みなみ・きた」という発音が全て、

 無意味な発音だけの先住民のものではなく、

 歴史とともに生まれ育った言葉だったからなのである。

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