2013年7月9日火曜日

倭国の悲劇を生んだのは後漢の経済破綻


 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録25:17頁

 その張政こそ知らなかったが、

 位宮はその直前まで魏と戦った高句麗の山上王だったのだから、

 それを魏に知られると魏軍が

 九州に雪崩れこんでくるのは必至だと思って当然だった。

 倭の済王たちもそれを知っていたから、

 位宮を卑弥弓呼素(新しい卑弥呼の父)と呼んで、

 それ以前の名乗りでは呼ばなかったのである。

 しかし何故?、

 そんな危険な人物を新政権の事実上の支配者と認めたのであろうか?。

 それこそ卑弥呼政権興亡の核心を語るものなのだ。

 後漢末の東アジアの政治情勢は、

 2世紀初頭に入って後漢政府が深刻な財政難におちいり、

 百官滅棒といったことを実行する、

 まるで今のリストラ日本政府のような末期症状を呈してはいたが、

 それでも191年に皇帝の権威が完全に失墜して、

 やがて魏・呉・蜀、三国が分立するまでは、

 卑弥呼らは対岸の火事よりもまだ遠くの「風の便り」を聞くていどで、

 虫けらにも愛情を注ぐ慈悲の教え

 「仏法」による平和主義の政治を謳歌していた。

 しかしそれまで、

 隣接していて漢帝国よりも強く圧力を感じていた公孫氏の遼東政権が、

 三国末期の景初2年(238年)に、

 アッというまに魏に滅ぼされたので、

 それとほとんど同時に卑弥呼は魏との友好政策を打ち出し、

 難升米使節を派遣して一応成功を収めたのだった。

 だが高句麗ではそうはいかなかった。

 敗れた位宮は辛うじて脱出して琉球へ逃げ帰った。

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