2013年7月10日水曜日

位宮と毌丘儉の死闘と教訓


 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録25:20頁

 この丸都城陥落は貌の正始5年(244年)のことで、

 卑弥呼が狗奴国男王との争いを帯方郡に訴えたのは

 その3年後の正始8年(247年)のことである。

 『魏書・毌丘儉伝』は要約すると次のようにその戦闘を描写している。

  「(幽州刺史)儉は高句麗が繰り返し侵放するので、

   歩騎の諸軍万人を督して玄菟(ゲント)郡を出発、諸道から高句麗を討った。

   句麗王・宮は歩騎2万を率いて軍を沸流(フル)水上に進め、

   梁口(レウコウ)で大戦したが宮軍が破れて逃げた。

   儉は馬をつなぎ、車を繋(つな)いで丸都に登り、句麗の都を屠(ほう)った。

   斬獲した首と捕虜の数はともに千単位で数えた…」。

 しかし丘儉は位宮を捕虜にできず、

 死体も見つからなかったので口惜しがって追跡し続けた。

 『三国史記』はそれを

  「魏将は粛慎(チユクチ)の南界まで到ったが、

  (位宮を発見できなかったので仕方なく)石に紀功(手柄話)を刻んで残し、

  丸都に引き返して、そこをわざわざ「不耐城」と名づけて国へ帰っていった」と書いている。

  不耐城とは丘儉の攻撃に

 「耐えることができなかった城」

 という表面的な意味のほかに、

 丘儉自身もまた、

 位宮を取り逃がした無念さに耐えられなかった事実があるのであり、

 これに続く丘倹の悲劇の死に至る彼の性格と教養を教えるこの名は、

 軽視してはならない優れた命名なのだ。

 歴史は試験問題の答のような空疎な事件の羅列だと考えてはだめで、

 先人の心理を読んで学ぶ天の恵みにしたほうがいい。

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