2012年2月29日水曜日

2種類あった五彩圏とその判別



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録07:21頁

 《2種類あった五彩圏とその判別
 「2種類あった五彩圏とその判別

 しかしこれで、五彩圏思考が仏教と無関係だったと考えるのは早計である。

 それはマガダ国を中心に、五彩圏が実在していたことが明らかだからである。

 今のミャンマーは古来、ビルマと呼ばれてきたが、このビルはインド~アーリヤ語では、

 青色のことで、英語のブルーからマレー語のブラウまで完全に方言関係にある。

 青はいうまでもなく青竜の色で東を指し、ビルマはマガダ国の東にある。

 同じインド~アーリヤ語では黒はカラで、北にはカザフ共和国の大都市カラガンダはじめ、

 インドと蒙古の双方にカラコルム、その中間の中国西域にカラマイという地名が並んでいる。

 これと対象の位置にある南は、アショカ仏教史でも有名なスリランカで、

 ここから移動した人々が1世紀にインドネシアに植民した中心がシュリビジャヤ。

 そこからさらに東に移ったという地名をもつのが、沖縄の首都シュリ=首里である。

 そして日本では赤色をシュ=朱というから、

 それらはみな南=朱雀としてつけられた地名だったのである。

 これで納得がいくように、アショカ仏教圏は五彩圏を伴っていた。

 ただ注意が必要なのは、それは「アオ・クロ・アカ・シロ」と

 いうギリシャ語ではなかった点である。

 それは日本列島では位宮の五彩圏以後のものである。

 こうした細部を見落とさないように…。

 『My ブログ』
 古代メソポタミア
 歴史徒然
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 オリエント歴史回廊(遷都)
 古代史つれづれ 
 古代史の画像
 ネット歴史塾
 古代史ブログ講座
 ネット歴史塾
 ひねもす徒然なるままに    
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」
 
 『参考』
 『言語復原史学会:Web』
 『言語復原史学会:画像』 
        
 『検索』
 GoogleWeb検索
 Google画像検索
 YahooWeb検索
 Yahoo画像検索
 翻訳と辞書
 リンクフリー〔UTF-8 対応版〕

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

2012年2月28日火曜日

『倭泥』は倭人の後身か



『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録07:22頁

『倭泥』は倭人の後身か
『倭泥』は倭人の後身か

では倭人は後世どうなったか…。

国内の歴史はすでに解明ずみだから、

海外にその痕跡が残っているかどうかみてみよう。

いちばん明瞭に名をとどめているのは中国の雲南省である。

そこには中国側の当て字で『倭泥』と書いて「ウォニ」と読む一大集団が今も住み、

多くの部族に分かれていて、

ラオスからタイを経てミャンマーに至る山地にまで広がっている。

『倭泥』の「泥」の字は「ニ」に対する当て字で、

これは「尼」と書くと『倭尼』、

完全に「仏教徒の尼」という名になって、

それが卑弥呼らと同じ宗教集団の後身だとわかる。

しかし彼等は仏教徒のままではいない。

仏教国の痕跡はむしろ

ミャンマーからタイ、カンボジャ、台湾、南中国に濃厚に残っている。

しかし彼等が倭人の後であることは、

『倭尼』グループの部族名をみるとよくわかる。

一覧表にしてみよう。

ワニ  倭人・鰐(ワニ)

ホニ  豊人・百人・日人・本人など

カニ  可児・蟹(カニ)

カツ  勝・葛・蠍(サソリ)


カト  加藤・渦斗(オタマジャクシ)

アカ  阿和・赤・垢・あかん(関西弁)

フク  布孔・福・鰒(河豚=フグ)

ヘプ  蛇・蝮(ハブ)・羽生・波部

シムラ 西摩羅・志村・西村

ブツ  仏

『My ブログ』
古代メソポタミア
歴史徒然
ウワイト(倭人):大学講義録
ウワイト(倭人)大学院講義録 
オリエント歴史回廊(遷都)
古代史つれづれ 
古代史の画像
ネット歴史塾
古代史ブログ講座
ネット歴史塾
ひねもす徒然なるままに    
「終日歴史徒然雑記」
「古代史キーワード検索」

『参考』
『言語復原史学会:Web』
『言語復原史学会:画像』 

『検索』
GoogleWeb検索
Google画像検索
YahooWeb検索
Yahoo画像検索
翻訳と辞書
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕

《参考》
古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
最新の考古学的発掘の方法
存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

2012年2月27日月曜日

実在した『季節名連邦』



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録07:20頁

 《実在した『季節名連邦』
 「実在した『季節名連邦』

 しかしこれで、五彩圏思考が仏教と無関係だったと考えるのは早計である。

 それはマガダ国を中心に、五彩圏が実在していたことが明らかだからである。

 今のミャンマーは古来、ビルマと呼ばれてきたが、

 このビルはインド~アーリヤ語では、

 青色のことで、英語のブルーからマレー語のブラウまで完全に方言関係にある。

 青はいうまでもなく青竜の色で東を指し、ビルマはマガダ国の東にある。

 同じインド~アーリヤ語では黒はカラで、北にはカザフ共和国の大都市カラガンダはじめ、

 インドと蒙古の双方にカラコルム、その中間の中国西域にカラマイという地名が並んでいる。

 これと対象の位置にある南は、アショカ仏教史でも有名なスリランカで、

 ここから移動した人々が1世紀にインドネシアに植民した中心がシュリビジャヤ

 そこからさらに東に移ったという地名をもつのが、沖縄の首都シュリ=首里である。

 そして日本では赤色をシュ=朱というから、

 それらはみな南=朱雀としてつけられた地名だったのである。

 これで納得がいくように、アショカ仏教圏五彩圏を伴っていた。

 ただ注意が必要なのは、それは「アオ・クロ・アカ・シロ」と

 いうギリシャ語ではなかった点である。

 それは日本列島では位宮の五彩圏以後のものである。

 こうした細部を見落とさないように…。


 『My ブログ』
 古代メソポタミア
 歴史徒然
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 オリエント歴史回廊(遷都)
 古代史つれづれ 
 古代史の画像
 ネット歴史塾
 古代史ブログ講座
 ネット歴史塾
 ひねもす徒然なるままに    
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」
 
 『参考』
 『言語復原史学会:Web』
 『言語復原史学会:画像』 
        
 『検索』
 GoogleWeb検索
 Google画像検索
 YahooWeb検索
 Yahoo画像検索
 翻訳と辞書
 リンクフリー〔UTF-8 対応版〕

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

2012年2月26日日曜日

夏人もカリエンで日本列島からの移住か



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録07:19頁

 《夏人もカリエンで日本列島からの移住か
 「夏人もカリエンで日本列島からの移住か


 同様に古い日本列島先住民にはカリエン人がいる。

 この人たちが琉球諸島を根拠地にした

 巨大貝貨幣産業によって殷商帝国を支えたことなどまで、

 すでに著書で繰り返し明かにしてあるから

 重複する説明は不要だと思うので省略するが、

 今の北京語では「人」を「リェン」と聞こえるように発音するので、

 夏を「カ」と発音すると夏人とカリエンは同じ名になる。

 全く同じ時代に、同じ地域に、

 同じ発音の名をもつ人々が2種類いることは絶対にないから、

 夏人もまた日本列島からの移住者だったとする以外に答えはない。

 『My ブログ』
 古代メソポタミア
 歴史徒然
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 オリエント歴史回廊(遷都)
 古代史つれづれ 
 古代史の画像
 ネット歴史塾
 古代史ブログ講座
 ネット歴史塾
 ひねもす徒然なるままに    
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」
 
 『参考』
 『言語復原史学会:Web』
 『言語復原史学会:画像』 
        
 『検索』
 GoogleWeb検索
 Google画像検索
 YahooWeb検索
 Yahoo画像検索
 翻訳と辞書
 リンクフリー〔UTF-8 対応版〕

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

2012年2月25日土曜日

中国最古の帝国は日本人が作ったか



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録07:18頁

 《中国最古の帝国は日本人が作ったか
 《中国最古の帝国は日本人が作ったか

 殷人と日本の関係は、

 殷商帝国の都の跡である殷墟と、

 茨城県稲敷郡とが、

 共に北緯36度線の真上にあり、その間の距離が正確に2200kmあり、

 稲敷郡にある福田貝塚から

 出土した兵庫県西宮市・辰馬資料館蔵の「人面注口器」と呼ばれる縄文土器が、

 殷墟から出土したワシントンのフリア博物館蔵の、青銅製の「人面注口器=中国名・人面盉(カ)」

 同じ信仰による25を越える共通点をもっているので絶対に無関係ではなく、

 土器が古く、青銅器のほうが時代が後のはずだから、

 殷人は日本列島から中国に移住した人たちだったと考えると、

 現在なお日本列島に広く分布している

 「イナ・イニ・イヌ・イネ・イノ・イン」のつく地名は、

 その人々が縄文時代以来、日本列島に居住して残した遺跡文化財だということになる。

 すると日本語の「イニシエ」は関西語の「いぬ=去った」の活用で「去にし世」の古形であり、

 「イナい」も「昔はいたが今はいない」であり、

 「居ぬ」「居ねー」「居ん」は全てその方言であることがわかる。

 これらもまた殷人が日本列島にいた証拠だったのだ。

 同じことは「稲」の古い発音にもみられる。

 漢以前の発音は「トウ」で後世の「唐帝国」も「東」も同じなのは、

 それらはみな「東方から来たもの」という意味なのである。

 『My ブログ』
 古代メソポタミア
 歴史徒然
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 オリエント歴史回廊(遷都)
 古代史つれづれ 
 古代史の画像
 ネット歴史塾
 古代史ブログ講座
 ネット歴史塾
 ひねもす徒然なるままに    
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」
 
 『参考』
 『言語復原史学会:Web』
 『言語復原史学会:画像』 
        
 『検索』
 GoogleWeb検索
 Google画像検索
 YahooWeb検索
 Yahoo画像検索
 翻訳と辞書
 リンクフリー〔UTF-8 対応版〕

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

2012年2月24日金曜日

倭の語源=稲と米の歴史



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録07:17頁

 《倭の語源=稲と米の歴史
 《倭の語源=稲と米の歴史

 しかし、以上お話ししたことからは、さらに深く、それらの文字の歴史もわかる。

 それは発音が教えてくれるのである。

 特産物や代表的製品を、

 その供給者の名、またはその所属する国名や部族名で呼ぶ古代人の原則を

 考えると、『禾』の「カ」という発音は「カ人の植物」という意味をもっている。

 すると殷人が当時「カ人」と呼んだのは、

 それ以前にあった最古の王朝「夏」以外にはなく、

 『禾』を「カ」と発音するのは、

 その夏という国が穀物栽培を国の基本にしていた農業国だったから、

 穀物植物を意味する象形文字の『禾』を、

 「夏のカ」という発音で呼んだという以外に、

 まぎらわしくて不便な同音の名を、わざわざつけた理由は考えられない。

 同じように『稲』も、日本で「イネ」と発音するのは「イン=殷の産物」を意味している。

 稲は雑多な禾本科植物の中から、

 殷商時代に主要作物として選ばれ作出されたその国を象徴する品物という意味である。

 しかし殷の稲は発掘資料によれば「陸稲」ばかりで水稲はない。

 水稲は日本では「コメ」。

 その移動経路を考えると初期の発音は沖縄語の「クミ」で、

 これは久米島の「クメ」

 同じだから、沖縄語がマレー語と大きな共通点をもっていることから類推すると、

 『米=コメ=クメ=クメール』からきた作物と言うことになる。

 『My ブログ』
 古代メソポタミア
 歴史徒然
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 オリエント歴史回廊(遷都)
 古代史つれづれ 
 古代史の画像
 ネット歴史塾
 古代史ブログ講座
 ネット歴史塾
 ひねもす徒然なるままに    
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」
 
 『参考』
 『言語復原史学会:Web』
 『言語復原史学会:画像』 
        
 『検索』
 GoogleWeb検索
 Google画像検索
 YahooWeb検索
 Yahoo画像検索
 翻訳と辞書
 リンクフリー〔UTF-8 対応版〕

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

2012年2月23日木曜日

『倭』の漢字は何を意味するか



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録07:16頁

 《『倭』の漢字は何を意味するか
 《『倭』の漢字は何を意味するか

 『倭』の字は本来は人種名ではない

 中国周代の詩を集めた『詩経』に「周道倭遅=周の道は、まわりくどくて、遅れ過ぎる」と

 書いてあるから、倭は「迂遠な」という意味に今も使われる。

 また辞書の『字彙』には「慎み深い・素直な」という意味だと書いてある。

 文字の構造は、殷代に始まった象形文字で、

 『委』の字の上部の『禾』は禾本科植物=稲など穀物のこと。

 下に『女』がついているから「農業をする女性」。

 この「農業を女性にまかせる」という行為から、

 この字を「まかせる=委任する」という意味に使うようになった。

 ついでにお話しすると、「まかせる」という日本語もこれとは無関係ではなくて、

 種を自分で蒔かずに他の者に「蒔かせる」という言葉から、発音が転用されたものなのである。

 「農業をする女性」に「イ=にんべん」をつけた『倭』を、

 「女性に農業をまかせる人種」の意味だとすると、鹿児島県から南の人たちは、

 まさにその通りの習俗を今に伝えてきている。

 「まわりくどくて遅い」という意味も、

 非力な女性農業が非能率的だったことからきている。

 では当時の男は何をしていたか…。

 農業と対象的な仕事は狩猟・畜産・漁業で、これらは全て動物を殺す仕事だ。

 このことから紀元前後には、『倭』とは「殺生をしない菜食の女性=女性仏教徒」を指す

 「ウワイ」という発音で読まれることになったのである。

 『My ブログ』
 古代メソポタミア
 歴史徒然
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 オリエント歴史回廊(遷都)
 古代史つれづれ 
 古代史の画像
 ネット歴史塾
 古代史ブログ講座
 ネット歴史塾
 ひねもす徒然なるままに    
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」
 
 『参考』
 『言語復原史学会:Web』
 『言語復原史学会:画像』 
        
 『検索』
 GoogleWeb検索
 Google画像検索
 YahooWeb検索
 Yahoo画像検索
 翻訳と辞書
 リンクフリー〔UTF-8 対応版〕

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

2012年2月22日水曜日

『山海経』の『周代の倭』のいた位置



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録07:15頁

 《『山海経』の『周代の倭』のいた位置
 《『山海経』の『周代の倭』のいた位置

 以上で『倭』という文字は、

 『魏書倭人章』の3世紀当時は確かに日本列島人を指しているが、

 それ以前の時代には、

 インドから出発して次第に東進した人々を指す「ウパイ」という呼び名が、

 東南アジアでウバイ、ウワイと訛った後、

 日本列島に到着した人々の集団名であったことがわかった。

 すると過去に謎だった

 『山海経(センガイキョウ)』に出てくる「倭」の疑問もすべて氷解するので、この結論が正しいことが証明される。

 『山海経』には「周時代に越裳が雉を献上し、

 倭人が鬯艸(チョウソウ=茸の一種の霊芝=レイシ)を貢いだ」と書いてあるが、

 霊芝は日本列島でははとんど採れない希な植物なのに対し、

 越(ベトナム)裳(シャン=ミャンマー・タイ)の一帯には多産するから、

 この「倭」は当然、東南アジアにいたのである。

 これを周の時代に「ウワイ人」がそこにいたと誤解してはいけない。

 文字は同じ『倭』でも実体も発音も違うのである。

 もうすでによくおわかりのように、

 卑弥呼時代にはウワイと発音されるように変わったが、

 それは倭人の中身が変わったせいであった。

 卑弥呼たち仏教政権がウワイと呼ばれたために文字の読み方が変わったのだ。

 このことは同じ理由で、文字とは全然無関係な読み方に変わった

 大和(ヤマト)、飛鳥(アスカ)、春日(カスガ)などの実在で疑問はないと思う。

 『My ブログ』
 古代メソポタミア
 歴史徒然
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 オリエント歴史回廊(遷都)
 古代史つれづれ 
 古代史の画像
 ネット歴史塾
 古代史ブログ講座
 ネット歴史塾
 ひねもす徒然なるままに    
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」
 
 『参考』
 『言語復原史学会:Web』
 『言語復原史学会:画像』 
        
 『検索』
 GoogleWeb検索
 Google画像検索
 YahooWeb検索
 Yahoo画像検索
 翻訳と辞書
 リンクフリー〔UTF-8 対応版〕

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

2012年2月21日火曜日

『倭』の移動を跡づけるカボチャ



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録07:14頁

 《『倭』の移動を跡づけるカボチャ
 《『倭』の移動を跡づけるカボチャ

 『倭』に視点を戻そう。

 中国では、野菜のカボチャを「倭瓜(wO kua)」と呼ぶ。

 その変わった瓜は日本産で、日本から輸入したものだと思われているのである。

 だが注意がいるのは、それが近世に日本から中国にはいったものなら、

 それは「日本瓜」と呼ばれ、

 中世以前にはいったものなら「大和瓜」か「夜麻土瓜」と

 呼ばれたはずなのに、なぜ『倭瓜』と呼ばれているのか…という点である。

 日本ではそれはカボチャと呼ばれている。

 面白いのはそれが関西で「>ナンキン」と呼ばれていることである。

 ナンキンとは「南京」のことだか、こちらでは中国から来たとしている。

 まるで正反対なのが面白いのである。

 だが『魏書倭人章』にはカボチャの記載がなく、倭国時代にも日本では栽培していない。

 カボチャとはカンボジャのことだというのは常識だ。

 ウパイが東南アジアでウバイになり、

 それも中国に入って優婆夷と当て字されているので、

 当時の相互交通がわかる。

 それがさらにウワイになり、ゥォになった。

 倭瓜の発音が「ゥオクワ」なのは、倭が日本で「ゥオ」と呼ばれるようになった後、

 その発音が中国南部に定着した時代に

 倭人が提供したカボチャが中国で「倭瓜ゥオクワ」という名で定着した。

 それは『魏志倭人章』時代以後で、

 当時寒冷だった関西には温暖化が進んだ後世になって

 南京経由で逆輸入されたとわかるのである。

 『My ブログ』
 古代メソポタミア
 歴史徒然
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 オリエント歴史回廊(遷都)
 古代史つれづれ 
 古代史の画像
 ネット歴史塾
 古代史ブログ講座
 ネット歴史塾
 ひねもす徒然なるままに    
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」
 
 『参考』
 『言語復原史学会:Web』
 『言語復原史学会:画像』 
        
 『検索』
 GoogleWeb検索
 Google画像検索
 YahooWeb検索
 Yahoo画像検索
 翻訳と辞書
 リンクフリー〔UTF-8 対応版〕

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

2012年2月20日月曜日

「八紘一宇」はギリシャ哲学思想



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録07:13頁

 《「八紘一宇」はギリシャ哲学思想
 《「八紘一宇」はギリシャ哲学思想

 このアルゴ遠征団の記録を、

 現在のギリシャから遠征したものと錯覚している人もあるが、

 それはギリシャの古代史に無知なためで、

 ギリシャ国家を形成したアーリヤ人のさまざまな部族が、

 バルカン半島に侵入し始めたのはB.C.E.16世紀で、

 B.C.E.14世紀には大部族のアイオリヤ人、ドリヤ人らが相次いで侵入、

 イオニヤ人はすでに遠征して小アジアに入り、

 B.C.E.100世紀にはさらにリディヤに植民地を作っている。

 このアーリヤ人大移動は地中海周辺だけのことではなく、

 B.C.E.12世紀にはインドにも侵入して中心地の

 パンジャプ地方を完全に占拠していた。

 だからギリシャ人、インド人という区別をやめて一括して同じアーリヤ人だとみると、

 アショカ王一族がギリシャ人に違和感をもたず、アレクサンドロス大王の後継者と

 自認していたのも少しも不思議ではない。

 ことにアショカ王が仏教融和で全世界を一つにしようとした悲願は、

 アレクサンドロスがペルシャ併合時、世界国家の理想を宣言して、

 彼と高級軍人千人がペルシャの花嫁と集団国際結婚式を挙げた事実と結びつく。

 その理想哲学が継承されたものが神武天皇の『八紘一宇』の真意で、

 太平洋戦争中に曲解されたような侵略思想ではない。

 アショカ王統を継承した古代天皇たちが常に、

 倒し併合した敗者の王女と結婚するのは大王以来の伝統なのである。

 『My ブログ』
 古代メソポタミア
 歴史徒然
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 オリエント歴史回廊(遷都)
 古代史つれづれ 
 古代史の画像
 ネット歴史塾
 古代史ブログ講座
 ネット歴史塾
 ひねもす徒然なるままに    
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」
 
 『参考』
 『言語復原史学会:Web』
 『言語復原史学会:画像』 
        
 『検索』
 GoogleWeb検索
 Google画像検索
 YahooWeb検索
 Yahoo画像検索
 翻訳と辞書
 リンクフリー〔UTF-8 対応版〕

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状